宝井其角寓居乃跡

宝井其角寓居乃跡は、滋賀県大津市にある。

この地は、蕉門十哲(芭蕉の高弟)の一人、宝井其角の父、竹下東順の出生地である。
地元では、「其角邸跡」と呼んでいる。
医術を業とした東順は、慶安4年(1615)に江戸に下り、膳所藩主 本多公の江戸屋敷に仕えた。
早くから風雅の心を有し、其角もその影響を受けるところとなった。

寛文元年(1661)7月17日、江戸で生まれた其角は、榎下(榎本)(母方の性)を姓とし、通称源助、幼名を八十八といった。
俳号を其角としたのは、易の文の「晋其角を晋む」という言葉からの引用で、姓を宝井と自称したのは後年である。

延宝2年(1674)14歳で芭蕉の門に入った其角は、たちまちのうちに頭角をあらわした。
以来、芭蕉の高弟として各地で蕉風の宣揚に努めた。
初めて堅田を訪れたのは28歳の時、父の実家の法事に出るためで、その折には
   「蓬莱にあふみの婆々や松の雪」
などの句を詠んでいる。

その後もしばしば堅田を本拠にして、本福寺の千那をはじめ、膳所の菅沼曲翠、彦根の森川許六などと親交を重ねた。
其角の排風の特色は、時代の活気を反映した明るさが本領で、洒落風として独自の境地を築いた。
堅田をはじめ、湖畔での句には、
  「初生やいとせいとゝせ柿の数」 
  「婆に逢ひにかゝる命や勢田の雪」
  「帆かけ舟あれや堅田の冬けしき」
 などの代表作がある。

堅田は、今もなお蕉門の余韻を色濃く伝え、俳句会の盛んなところであるが、これは当地をふるさととする竹下東順に発し、其角によって築かれ、千那などを経て伝えられたものである。

其角は、宝永4年(1707)47歳で没し、江戸芝二本榎の上行寺に葬むられたが、昭和37年(1962)同寺は神奈川県中郡伊勢原町上糟屋(伊勢原市)に移転となり、改装された。
「うぐいすの暁寒しきりぎりす」が辞世である。→ インターネット俳句 宝井其角




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