木村重成表忠碑は、大阪市北区中之島の大阪市立東洋陶磁美術館東隣にある。
明治29年(1896)に、かつてこの地にあった豊国神社前に建立されたもので、豊国神社は1961年に大阪城公園内に移転した。
九代目市川團十郎の弟子 市川新蔵が眼病で再起できぬと知らされ、「生涯の思い出に、「重成血判状」をやらせて欲しい」と懇願し、公演を成功させた。
彦根出身の大阪府知事西村捨三(1843-1908)がこれを見て感激し、小林佐兵衛(1829-1917)も共に発起人となってこの石碑を建立した。
木村重成(?-1615)は、安土桃山時代の武将である。
木村常陸介重玆(ひたちのすけしげこれ)の子、あるいは紀伊の地侍出身ともいわれる。
母の右京大夫局(うきょうだいふのつぼね)が、豊臣秀頼の乳母であったので、幼少から秀頼に仕え、長門守と称した。
大坂冬の陣では、初陣ながら、上杉景勝、佐竹義宣の兵を、今福、鴫野で破って奮戦し、和議では、秀頼の使者となって岡山の徳川秀忠のもとに赴き、誓紙を受け取った。
大坂夏の陣では、若江に出撃して井伊直孝の兵と戦い、力戦のうえ壮烈な討ち死にを遂げた。行年21歳とも24歳ともいう。
出撃の前に、死を覚悟して兜に名香をたき込め、首実験をした徳川家康を感嘆させた。
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