北野天満宮は、京都市上京区にある神社である。
祭神は、中殿に主神菅原道真朝臣(すがわのみちざねあそん)、東間(ひがしのま)に中将殿(道真の長子高規(たかみ))、西間に吉祥女(きちじょうにょ)(道真夫人)を祀る。
大宰府天満宮とともに全国天満宮1万余の宗祠(そうし)で、一般には「北野の天神さん」と呼ばれ、学問の神様として崇められている。
菅原道真は、33歳で文章博士となり、宇多天皇に重用されて右大臣となったが、左大臣藤原時平の讒言により、太宰権帥(だいざいのごんのそち)に左遷され、延喜3年(903年)に大宰府で亡くなった。
その後、京都では、不慮の死や落雷など異変が多く起こり、道真の祟りと恐れられた。
天慶5年(942年)、西京七条に住む巫女(みか)多治比奇子(文子)(たじひのあやこ)は、道真の託宣を受け邸内に小祠を構えて神霊を奉祀し、天暦元年(947年)現在地に移した。
同じとき近江比良社(ひらしゃ)禰宜良種(よしたね)の子太郎丸に神託があり、現在地に社殿を造営したのが、北野天満宮の始まりと伝えられている。
天徳3年(959年)藤原師輔によって社殿が整備され、天正15年(1587年)には、豊臣秀吉が付近一帯の松原で北野大茶会を催した。
現在の本殿(国宝)は、豊臣秀頼が造営したもので、八棟造・石の間造と呼ばれ、本殿と拝殿が石の間を挟んで前後に建っている。
秀吉は、北野天満宮で北野大茶湯(大茶会)を開いたため、太閤井戸と北野大茶湯之跡の石碑が境内に残されている。
徳川家康公を東照大権現として祀る日光東照宮がこの形式を取り入れて以来、権現造と呼ばれるようになった。
中門は、三光門と呼ばれ後西天皇筆の勅額「天満宮」を掲げている。
2月25日は、菅原道真の祥月命日で、梅をこよなく愛した道真に因み、梅花祭 野点大茶湯が行われる。
10月1日から5日は、五穀豊穣に感謝する秋の大祭 瑞饋祭(ずいきまつり)が行われる。屋根と4本柱をすべてずいきで作り、鬼瓦をかしら芋、瓔珞を茄子や唐辛子、ほおづきなどで飾った瑞饋神輿が使われる。
毎年12月1日に献茶祭が行われ、菅原道真と豊臣秀吉に茶が献上される。
京都市バス北野天満宮前下車すぐ。参拝者用の駐車場がある。
8月1日から14日まで北野七夕祭が行われ、宝物殿特別展や境内夜間参拝、泣き相撲、学業大祭、祈願絵馬焼納式などが催行される。
8月12日から14日までは、平安京ゆかりの清め神事として「御手洗(みたらし)足つけ燈明神事」が行われる。
北野では、七夕神事を御手洗祭として斎行してきたもので、大祓神事を意味する重儀として位置づけられてきた。
御手洗祭は、内陣に松風の硯・角盥・水差し・梶の葉を供えて、古くは祭典中に角盥の上で、梶の葉に水をかける儀式があり、梶の葉は詩吟の短冊代わりとされていた。
古事によると、御手洗祭の前後に御神宝類の虫干しが実施された。平成28年には神宝類の虫干しに合わせ、本殿石の間の特別通り抜けが実施された。
足つけ燈明神事は、参拝者が境内に造られた御手洗川(みたらしがわ)の清らかな水で邪気を払い、心身ともに清々しく夏を過ごす禊神事である。御手洗川では、古式にならい神職が鑚り出した浄火を授かり、五色のろうそくに火を灯す。
また、清水に浸すと字が浮き出る「みず占みくじ」が配られる。
大茶会で豊臣秀吉が名付けたお餅として知られ、400年以上の歴史を有する。
当時は、おはぎの上に餡がのっていたが、現在は餡が餅の中に入れられている。
あんこときな粉の2種の粟餅が一皿にセットされて出される。
かつて粟餅は庶民の味であったが、現在はもち米の3倍くらいの材料費が必要となっている。