弘法大師御廟は、和歌山県高野山奥之院にある。
奥之院の最も奥に位置する三間四面、檜皮葺、宝形造の建物で、一般には御廟と呼ばれている。
御手印縁起付載絵図には「奥院入定廟所」と記され、廟堂(宇治関白高野山御参詣記)、高野廟堂(白河上皇高野御幸記)、高野霊廟(鳥羽上皇高野御幸記)とも記される。
空海は承和元年(834年)9月に自ら廟所を定めたといわれ、翌年3月21日寅の刻に没した。
七七日(四十九日)を経て、弟子(実恵、眞雅、真如親王、眞濟、眞紹、眞然)によって定窟に奉安され、その上に五輪卒塔婆を建てて種々の梵本陀羅尼を入れ、その上に宝塔を建てて仏舎利を安置した。廟の造営にはもっぱら眞然大徳が当たった。
その後、11世紀に高野山は一時荒廃するが、祈親上人が復興し、御廟を再興して大師信仰の中心となった。
これは、弘法大師が入定して高野山に留まっているとする入定留身説が広く信者に受け入れられたものである。
御廟の瑞垣内には、東側に二社、西側に一社の小祠が祀られている。
東側は、丹生明神と高野明神で、高野山開創伝承に基づく。
西側は白髭稲荷大明神で、弘仁14年(823年)、弘法大師が嵯峨天皇から東寺を賜った際、密教と国土の安泰を稲荷大明神に契約したという伝承「稲荷契約事(いなりけいやくのこと)」に基づくものである。
紀伊続風土記の「奥院之四」には、白狐の項があり、「額に三鈷を戴く白狐が大峰から毎日参詣する」と記されている。