近衛家(近衛文麿)供養塔

近衛家(近衛文麿)供養塔は、和歌山県高野山奥の院にある。
奥の院燈籠堂へ上る階段横東側に近衛家墓所がある。

史跡金剛峯寺境内(奥院地区)大名墓総合調査報告書Ⅱによると、7基の石塔がある。
石塔は、東側3基、西側4基が向かい合う形で並んであり、各供養塔の概要は次のとおりである。

 石塔位置
(反時計回り)
石塔形状
総高 
 供養者名  没年  法名  備考
東側列南①
(向かって右手前)
無縫塔
136cm 
近衛家20代
近衛 尚嗣
1653年 妙憂有真空院  
 東側列②
(向かって右中央)
無縫塔
107cm 
近衛 信尋側室 円珠院  
東側列北 ③
(向かって右奥)
五輪塔
一部欠 
近衛家19代
近衛 信尋
1649年 本源自牲院  
西側列北奥 ④
(向かって左奥)
五輪塔
148cm 
近衛家18代
近衛 信伊
1614年 三藐院
西側列北⑤ 
(向かって左中央奥)
一石五輪塔
80cm 
 近衛家24代
近衛 内前
1785年  大解脱院   
 西側列中央⑥
(向かって左中央)
一石五輪塔
80cm 
 近衛家26代
近衛 基前
1820年 証常楽院   
西側列南⑦ 
(向かって左手前)
五輪塔
92cm 
近衛家29代
近衛 文麿
1945年 荻外院  


江戸時代に編纂された「紀伊名所図会」の高野山往生院谷 萱堂の挿絵には、「近衛殿廟」と記載された廟所がある。
また「紀伊続風土記」高野山之部聖方西谷には、次の記述がある。
勅願所後深草山安養寺成仏院 萱堂といふ(中略)
近衛家霊碑 摠門の内 東方にあり 代々の尊碑なり

大正13年(1924)発行の「高野山金石図説」には、「近衛殿 萱堂」との記載があり、燈籠堂前の石塔配置図に近衛家供養塔は見当たらない。

上記の記録から、近衛家供養塔(近衛殿廟、近衛家霊碑)は、江戸時代には往生院谷にあったが、その後(大正年間以降)、奥の院の燈籠堂南に移転されたと考えられる。

近衛家は、藤原北家(ほっけ)の嫡流、五摂家の一つ。
平安時代末期の法性寺関白 藤原忠通(ただみち)の長子 藤原基実(もとざね)を始祖とする。
近衛の称は、その邸が近衛通りに面していたことに因み、基実の子  基通(もとみち)のときより近衛氏を称した。
17代近衛信尹(のぶただ)には、継嗣(けいし)がなく、信尹の妹 前子(さきこ)の所生になる後陽成天皇の第4皇子 信尋(のぶひろ)が入って18代となった。
江戸時代の家領は、2862石余。

近衛文麿(このえふみまろ/このえあやまろ)(1891-1945)は、大正・昭和時代の政治家である。
明治24年に貴族院議長などを歴任した近衛篤麿の長男として東京市に生まれた。
京都帝国大学卒業後、内務省に入り、1919年西園寺公望全権の随員としてベルサイユ講和会議に出席した。
五摂家の筆頭、藤原鎌足から数えて46代目という名門の出身であることから、若くして華族会のホープと目された。
昭和12年(1937)に第一次近衛内閣を組閣して以降、第34代、38代、39代と三度にわたり内閣総理大臣を務めた。
第二次世界大戦後、東久邇宮稔彦(なるひこ)内閣に副首相格として入閣したが、戦犯に指名され、昭和20年(1945)12月16日服毒自殺した。
京都市北区の大徳寺に「近衛家廟所」があり、文麿の墓所はその地にある。
当地の近衛文麿供養塔には、次のように刻されている。
(正面)(東面) 荻外院殿虎山大居士
(左面)(南面) 近衛文麿 享年五十五
(右面)(北面) 昭和廿天十二月十六日

(写真撮影禁止地域のため、写真はありません。)




TOP PAGE  観光カレンダー
TOP PAGE  观光最佳时期(旅游日历)