槙尾山明神社

槙尾山明神社は、和歌山県九度山町にある。
紀伊続風土記には、次のように記されている。
〇槇尾山明神社  境内周六町八間
 本社 一間半 一間 高野明神 白髭明神 合祀
 摂社 弁財天社 一間二尺 五尺
村の東三町許槇尾山にあり 一村の氏神なり
御手印縁起に北は槇尾山を限ると見えたるは即此森山なり
祭礼 六月十四日 十一月十四日なり
  別当 遍照寺 槇尾山
 村の東にあり 大日堂薬師堂祖師堂釣鐘堂等あり

寛政10年(1798年)に書かれた遍照寺縁起の「善根功徳之記」に、槇尾山の由来と別当寺の遍照寺の起源が次のように書かれている。
「この山は神代の昔から有為の峰といって丹生・白髪大明神のあるところ、弘法大師が槇尾山で修行されておられた頃、かたわらの弁財天を御信仰なされて、日夜お参りされていた。
高野山をお開きになってからも厚く信仰され、月に九度ずつ槇尾山に参詣されていた。ところがある日、九度山まで下ってこられた時、吉野川に大水が出ていた。どうして渡ればよいのかと沈んでおられた。
そこへ弁才天が現れて、この地にわれを移し祀れ、と告げられた。
そこで大師はこの山へ弁才天を移し祀り、槇尾山という御自筆の額を掲げられた。
この時から社を槇尾明神社といい、傍らに別当寺を建てて槇尾山遍照寺と名付けられた。」

当社は、特に著名な「御手印縁起」に「宇田峯 槙尾」と記されているこの地点に勧請され、現在にまで引き継がれてきている。
上記の通り、空海が槙尾寺の弁財天を信奉しており、弁財天がこの地に遷宮するよう宣託があり、月に「九度」参拝したことから、当地「九度山」の地名が起こったともいわれる。
当社は九度山町内で最も大きな集落である「九度山区」の総産土神社として大きな信奉を集めてきたが、
明治38年(1905)の神社合祀令により他所へ合祀されたにもかかわらず、「東第一」地区を中心にこの社殿二棟を守り伝えてきた。
上記の高野明神立像と白髭明神坐像は、平成31年に和歌山県立博物館で展示された。
(「仏像と神像のまなざし」和歌山県立博物館 参照)

境内西側には、槙尾山明神法華経供養碑があり、案内板に次のように記されている。
九度山町指定文化財
槙尾山明神法華経供養碑 (歴史資料)
この法華経供養碑は、もとは明神社の参道脇に建立されていたものである。
遍照寺の「善根功徳之記」によれば、寺も宮も共に槙尾山と号し、この明神山にあり、寺が宮の管理も行っていたようである。
この供養碑は、遍照寺の移転後もこの明神山に残されていたもので、明治以前の神仏一体の信仰の歴史を知る貴重な資料である。「貞和五年(一三四九年)建立」
  平成四年一月二十四日指定
    九度山町教育委員会

南海高野線九度山駅下車、徒歩5分。



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