松平(榊原)忠次夫人 長昌院供養塔は、和歌山県高野山奥の院23町石西にある。
越後高田 榊原家供養塔の墓域にあり、中央にある榊原康政供養塔の西側(一の橋側)参道寄りに位置している。
五輪塔の地輪には、次のように刻されている。
奥州白川城主松平
式部大輔殿御内儀追善也
長昌院殿華
(梵字)爲
眞譽専榮大信女
寛永廿年
九月七日
榊原(松平)忠次(1605-1665)は、大須賀忠政の長男で、徳川四天王と称された榊原康政の孫である。
母が、徳川家康の姪(松平康元の娘)であるため、忠次一代に限り終身松平姓を許された。
忠次は、父の死により3歳で祖母の生家である大須賀家を相続し、遠江横須賀藩で6万石を領した。
その後、叔父の榊原家当主 榊原康勝に子がなく断絶しかかっていた時、家康の命により、忠次が10歳で上野館林藩榊原家10万石を相続した。
その後、陸奥白河藩14万石に転封、さらに姫路藩15万石に国替えとなった。
忠次の正室は、黒田長政の次女 徳姫で、継室に寺沢広高(肥前唐津城主)の娘 長昌院を迎えた。
松平式部大輔(榊原忠次)が白河(墓石は「白川」)藩主の時、長昌院が亡くなったため、忠次が当地の供養塔を建立した。
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