松平(大給)家供養塔は、和歌山県高野山奥の院23町石すぐそばにある。
史跡金剛峯寺境内(奥院地区)大名墓総合調査報告書によると、墓域内には、
宝篋印塔11基、大型五輪塔2基、中型五輪塔1基、小型五輪塔3基、屋根付墓標1基、方柱1基ほかがある。
主な石塔は次のとおりである。
写真番号 | 供養者名 | 没年 | 石塔下段刻名 | 石塔上段刻名 |
① | 豊後国府内藩 第8代藩主 松平 近訓(ちかくに) |
嘉永5年 (1852) |
從五位下松平左衛門尉 源朝臣近訓 |
大鏡院殿寂譽 智徳閑山大居士 |
② | 豊後国府内藩 第9代藩主 松平 近信(ちかのぶ) |
天保12年 (1841) |
從五位下松平信濃守 源朝臣近信 |
寂靜院殿心譽 所著超勝大居士 |
③ | 豊後国府内藩 第4代藩主 松平 近貞(ちかさだ) |
宝暦7年 (1757) |
従五位下前長門守 松平氏源近貞 |
雲晴院殿現譽徳翁 智山大居士 |
④ | 豊後国府内藩 第5代藩主 松平 近形(ちかのり) |
安永2年 (1773) |
従五位下前主膳正 松平氏源近形(異体字) |
觀光院殿照譽無涯 壽玄大居士 |
⑤ | 豊後国府内藩 第6代藩主 松平 近儔(ちかとも) |
天保11年 (1840) |
従五位下松平長門守 源朝臣近儔 |
光澤院殿馨譽 香華月不騫大居士 |
五輪塔 ⑥-1 |
丹波亀山城主 松平 成重(なりしげ) |
寛永10年 (1633) |
丹州亀山城主松平左近 将監源朝臣成重公 (梵字)爲見樹院殿覚誉 圓徹大禅定門(以下略) |
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五輪塔 ⑥-2 |
松平 成重継室 久松院 |
寛永6年 (1629) |
寛永六年 丹州亀山松平将監殿 (梵字)久松院殿椿岳宗寿大姉 爲御内方追善 |
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⑦ | 豊後国府内藩 初代藩主 松平 忠昭(ただあき) |
元禄6年 (1693) |
従五位下左近将監 松平氏源忠昭 |
寶林院殿淨譽覺月 如圓大居士 |
⑧ | 豊後国府内藩 第2代藩主 松平 近陳(ちかのぶ) |
享保4年 (1720) |
従五位下前對馬守 松平氏源近陳 |
證眞院殿頓譽圓意 如元大居士 高霊 |
⑨ | 豊後国府内藩 第7代藩主 松平 近義(ちかよし) |
文化4年 (1807) |
從五位下前主膳正 松平氏源近義 |
判読困難 (淨岳院暁譽翻然 清遊大居士) |
⑩ | 豊後国府内藩 第3代藩主 松平 近禎(ちかよし) |
享保10年 (1725) |
從五位下前相模守 松平氏源近禎 |
大智院殿雲譽徳水 林眞大居士 高霊 |
松平(大給)氏は、いわゆる「十八松平」と称する一家で、その家祖は松平親忠(徳川家康の五代前)の次男 乗元(のりもと)であり、
三河国賀茂郡大給(おぎゅう)(現 愛知県豊田市)を領して、その子孫を大給氏または大給松平氏を称した。(異説有り)
宗家である徳川家に仕え、江戸時代には譜代大名四家などを輩出している。
当地墓所内五輪塔の松平成重嫡男の忠昭が、明暦4年(1658)に豊後府内に2万2200石で入封し、明治維新まで在封した。
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