松平定信供養塔は、和歌山県高野山奥の院24町石北西にある。
堀尾家供養塔 松江開府の祖 堀尾吉晴公墓所、海軍整備課予備練習生記念之碑の東で一段高い場所にあり、さらに東には弘法大師ごま石がある。
五輪塔地輪各面には、次のように刻されている。
(東面)
守國院殿羽林次将
(梵字) 崇蓮社天譽
保徳樂翁大居士
(南面)(梵字) 松平越中守定永
建之
(北面)(梵字) 文政十二年
丑五月十三日卒
松平定信(1758-1829)は、江戸時代後期の大名で、老中として寛政の改革を断行したことで知られる。
田安宗武の七男で、八代将軍徳川吉宗の孫にあたる。
安永3年(1774)奥州白川藩 松平定邦の養子となり、天明3年(1783)には養父定邦の跡を継いで白川11万石の藩主となり、従四位下越中守に昇進した。
藩の財政の立て直しや領民生活の安定化に尽力したことが評価され、老中田沼意次失脚の後、御三家と将軍家斉の実父 一橋治済(はるさだ)の推挙によって、老中首座(筆頭)となり、以降6年にわたり寛政の改革に取り組んだ。
寛政5年(1793)老中を退いた後、再び白川藩政に専念して、特に文武奨励に力を注いだ。
文化9年(1812)に家督を子の定永に譲った。
「今更に何かうらみむうきことも楽しきことも見はてつ身は」との辞世を残している。
松平定信の墓所は、東京都江東区白河の霊巌寺(れいげんじ)にあり、昭和3年(1928)国の史跡に指定されている。
霊巌寺にある墓石には「故白河城主楽翁公之墓」と刻されている。
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