松下幸之助生誕地

松下幸之助生誕地は、和歌山市禰宜にある。
松下幸之助(1894-1989)は、大正、昭和時代の企業経営者である。
明治27年(1894)に当地の農家の三男として生まれ、9歳で小学校を中退し、丁稚奉公のため大阪に出た。
明治43年(1910)大阪電燈に入社し、工事員、検査員として働き、大正6年(1917)同社を退き、改良ソケットの製造販売を行い独立した。
大正7年(1918)松下電気器具製作所(のちの松下電器産業、現パナソニック)を創業し、自転車用電池ランプ、電気アイロン製造などで成功を収め、同社を一流企業に成長させて、「経営の神様」と呼ばれた。
企業経営のほか、PHP運動でも指導的役割を果たしたほか、昭和55年(1980)には、「松下政経塾」を創立し、政治家経営者の育成にも尽力した。
当地の石碑には、ノーベル賞受賞者 湯川秀樹の書で、「松下幸之助君生誕の地」と刻されている。
これは、湯川氏の父親が和歌山の出身で同郷のため揮毫されたという。
裏面には、「昭和三十九年五月建 大阪 音無會」と書かれている。
音無會とは、在阪和歌山県人(大阪に関係深い同県人を含む)相互の友誼を厚くする目的で設立された親睦団体である。
木友会と、紀水倶楽部という二つの団体をルーツとして設立されたという。
石碑南には、松下家墓所がある。
JR和歌山線千旦(せんだ)駅下車、徒歩5分。来訪者用の駐車スペースがある。

当地の1.5㎞南にある旧中筋家住宅に下記の文章が掲出されている。

松下幸之助翁の少年時代 in 和歌山

【出生 ~ 転居】
〇幸之助少年は、明治27年(1894)11月27日、和歌山県名草郡和佐村千旦ノ木(せんだのき)で生まれました(現在は和歌山市禰宜)。
屋敷内に樹齢700年~800年の「千旦の松(せんだんのまつ)」があり、「松下姓」はこの松から来ているといわれています(松は落雷と民家の火災で枯れています)。
松下家のあった地域は、おいしいお米がとれ、山手にはミカン畑が多く、養蚕も盛んだったようです。
幸之助少年の祖父のころは、松下家から田井ノ瀬橋(西約1.8㎞)まで他の家の土地を踏むことなく行けるほど裕福な家でした。
〇幸之助少年は、父政楠と母とく枝との間に生まれました。男3人、女5人の8人兄弟の末っ子で、兄弟姉妹で一番かわいがられていました。
子守に負われて、小川で魚を捕ったり、ドジョウをすくったりして遊び、夕暮れには子守の背中で子守唄を聴き、ウトウトしながら家に帰ったといいます。
〇幸之助少年が4歳のとき、父親が事業で失敗し財産を失いました。一家は住み慣れた千旦の木を離れ、和歌山市内に移り住みます。
知人の紹介で本町1丁目で下駄屋を始めますが、1,2年のうちに店をたたんでしまいます。
その後、父が大阪に単身赴任して生計を立てることになります。(後略)



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