松山城跡は、和歌山県橋本市菖蒲谷小字清水(地名田和)にある。
松山城を築城したのは、織田信長家臣の松山新介で、遺構として郭、土塁が残されている。
現状は、山林となっており、松山城は別名 菖蒲谷城、田和ノ城とも呼ばれた。
菖蒲谷の易産山護国院地蔵寺(子安地蔵寺)の北約500mのところに和泉山脈を背景に、独立峰の松山城の城山がある。
松山城の立地は「田和ノ城」との別名の通り、紀見地区から山田、吉原を経て高野口へ向かう道のタワ(山並みの撓(たわ)み 峠)のそばの要衝に築かれている。
従ってその築城目的も城によって地域を鎮める、支配する、というより、南の高野山勢力への牽制、または抑えを眼目にしているように窺える。
それは、構造的に見ても、主郭へ至る城道(通路)が何回かの「折れ」をしつらえ、「虎口(城の入口)」から主郭への直行を妨げる工夫に一番力を注いでいる事がわかる。
このような工夫は、「向城(むかいじょう)」「陣城(じんじろ)」(共に敵拠点に対抗してのみ築く城、砦を指す。)に多く見られる形式である。
主郭は40m×15mの方形を志向しているが、削平は甘く居住性を無視している。これも陣城の特徴を表している。
「紀伊続風土記」などによると、松山新介は織田信長の家臣で、信長の「高野攻め」の先鋒の武将として紀州に派遣された。→ 住吉神社(住吉大明神)
そして前進基地としての松山城を築き、幾度かの威力偵察や小競り合いの戦闘を重ねた。
銭坂城西方の高野街道と、大和街道の交差する辺り(「王子が森」という)での、高野勢と松山新介の部隊が衝突し、予てから「有事の際は加勢するように」との指示により、生地、牲川の援軍派遣で戦が終息したとの話も伝わっている。(この両氏の協力に対し、織田信長からの感謝の書状が出ている。)
織田の「高野攻め」の橋頭保を築き、維持に腐心していた松山新介であるが、高野勢の夜襲に合い戦に敗れて松山城は落城したと考えられている。
その後、天正10年の「本能寺の変」により、織田信長の高野攻めは自然終息した。
TOP PAGE 観光カレンダー
TOP PAGE 观光最佳时期