三河田原藩 戸田家供養塔は、和歌山県高野山奥の院34町石南東にある。
史跡金剛峯寺境内(奥院地区)大名墓総合調査報告書によると、中型五輪塔1基、小型五輪塔1基、櫛形墓標2基、角柱型墓標多数がある。
東端奥にある、2代藩主 戸田忠能五輪塔の地輪には、次のように刻されている。(水原堯榮氏「高野山金石図説」参照)
下野河内郡宇都宮城主
戸田越前守忠恕公
文久三亥春修補之成満
(梵字)
宿坊 西蓮院
道林寺殿
(梵字)忠能公塚
正保四丁亥正月三日
参州田原城主
(梵字)戸田因幡守忠能公
爲遍資越前守忠昌立之
参州とは、三河国の別表記である。
戸田忠能(ただよし)(1586-1647)は、天正14年三河田原藩初代藩主 戸田尊次(たかつぐ)の長男として生まれた。
父とともに関ヶ原の戦い、大坂の陣に出陣し、元和元年(1615)三河田原藩主戸田家2代藩主となった。
正保4年1月3日に62歳で死去し、嗣子がなかったため、弟 忠継の長男である忠昌(忠治)が家督を継いだ。
その後、戸田家は、肥後富岡藩、下総佐倉藩、肥前島原藩などを経て、下野宇都宮藩主として明治維新を迎えている。
上記五輪塔は、三河田原藩3代藩主 戸田忠昌(1632-1699)が建立し、下野宇都宮藩6代藩主 戸田忠恕(ただゆき)(1847-1868)が修補した。
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