耳塚(鼻塚)は、京都市東山区茶屋町 方広寺の西にある。
この塚は、16世紀末、天下を統一した豊臣秀吉がさらに大陸にも支配の手を伸ばそうとして朝鮮半島に侵攻した「文禄・慶長の役」(朝鮮史では、壬辰・丁酉の倭乱(じんしんていゆうのわらん)、1592-1598)の際に造られたもので、高さ約7mの塚の上に五輪塔が据えられている。
秀吉が配下の武将に敵の首を送れと指示したことから、古来一般の戦功のしるしである首級のかわりに、朝鮮軍民男女の鼻や耳をそぎ、塩漬けにして日本へ持ち帰り、埋めたものである。
第一次侵略の文禄の役で、日本の軍兵が首の代わりに耳や鼻をとって秀吉に送る事が部分的にみられたが、朝鮮南部を実力で奪おうとした第二次侵略の慶長の役では、鼻切りが激しくなった。
首の代わりに鼻を切ったのは、首が重かったことと、鼻切りが相手をもっとも侮蔑する行為だったことによる。
塩漬けで送る際に、軍目付(いくさめつけ)が諸大名ごとに鼻数を点検して請取状を出し、諸大名は鼻切りをした家臣に請取状を出して鼻切りを競わせた。加藤清正などは、家臣1人に鼻三つを割り当てている。
方広寺大仏の石塁が大和大路通に面した豊国神社西側の残されており、豊国神社境内南東隅にある馬塚とともに、耳塚は「方広寺石塁および石塔」として昭和44年に国史跡に指定された。