引の池応其上人五輪塔は、和歌山県橋本市高野口町にある。
引の池は、高野口町応其の西北にある橋本市最大のため池である。
天正17年(1589年)に応其上人の主導によって築造され、現在も応其、伏原、名古曽一帯を灌漑している。
堤高13.5m、堤長187m、総貯水量19万㎥、満水面積は6haである。
引の池の名の由来は、もとあった「鐘の樋池」が潰れたため、新たに手前に引き寄せてつくった池なので「引の池」と呼ぶことにしたといわれる。
上池の西側土手を登ったところに応其上人の五輪塔がある。
一番下の地輪には、次のように記されている。
(正面) 天正十八年 木食応其上人 九月廿一日
(側面) 施主四ケ村 奉為息災謝 奉行西山勝家
西側には、寛政四年(1792年)建立の法華経一字一石がある。
橋本市あさもよし歴史館は、和歌山県橋本市にある社会教育施設である。
橋本市内の古墳や遺跡などから出土した考古資料を扱っている。
考古資料を整理して、図や写真などに記録するとともに、保存して次代に伝えることを目的に設置された施設である。
1階には、事務室、図書室、収蔵室があり、2階には、展示室、研修室、遺物整理室、調査研究室がある。
これらの資料の調査・研究をはじめ、その成果を展示して文化財の活用に努めている。
「あさもよし」は、紀伊国を詠んだ万葉歌にしばしば用いられることばで、大和国から紀伊国への入り口にあたる真土山でも8首のうち3首の歌に詠み込まれている。
「あさもよし」は「麻裳よし」と記され、かつて紀伊国は麻で作られた裳(表袴(おもてはかま))の特産地であったと言われることから、あさもよしは、地名「紀」(紀州、紀人、紀伊国)にかかる枕詞(まくらことば)とされている。
あさもよし 紀人羨(きひととも)しも、亦打山(まつちやま) 行き来(く)と見らむ 紀人羨しも
調首淡海(つきのおびとおうみ) 大宝元年(1-55)
大宝元年(701年)、持統上皇の紀伊国行幸に付き従った調首淡海の歌で、紀伊路の行き帰りに見える真土山、この真土山のある紀伊の人がうらやましいと歌っている。
橋本市は、かつての飛鳥や奈良の都から紀伊国へ足を踏み入れる最初の地であり、紀伊国を導く「あさもよし」のことばにふさわしいところであるため、平成18年4月に、古代のこの地域の歴史研究、資料の保存、展示を目的とするこの施設が、「あさもよし歴史館」と名付けられた。
平成29年6月21日から9月16日まで企画展「陵山古墳とその時代」が開催された。
平成29年7月15日には企画展シンポジウム「陵山古墳とその時代-陵山古墳の謎を読み解く」が橋本市教育文化会館で開催された。
平成29年3月31日まで企画展「土地に刻まれた歴史はしもと」が開催された。
弥生時代の血縄遺跡、市脇遺跡などから出土した壺や甕が展示された。
展示品の中には、当時の調理に使われた石皿と叩き石や、石包丁なども含まれており、弥生時代の人々の生活の様子が伺える。
2月25日午後1時30分から3時には、橋本市文化財保護審議会の冨加見泰彦委員による講演会「弥生時代のはしもと」が開催された。
JR和歌山線紀伊山田駅下車、徒歩約10分。来館者用の駐車場がある。
銭坂城跡は、和歌山県橋本市野にある史跡である。
銭坂城は、野の北方、標高60mの小丘にあった生地(恩地)氏の居城である。生地(おんじ)城、相賀(おうが)新城ともいう。
紀伊續風土記によると、生地氏は本姓坂上氏で、坂上氏は相賀荘下司である。
承久年間(1219-22)坂上朝澄の時、軍功によって「禿村東岡」(現在の学文路)に畑山城を築いた。
その後、生地氏は伊都郡司として楠木正成と婚姻関係を結び、河内千早・赤坂城などの戦いに加わり、以降も南朝に属して没落した。
応永年間(1394-1428)畠山基国に属し、足利義満から旧地を与えられ、永享年間(1429-41)畑山城をこの地(相賀荘)に移し、相賀新城と称して、居城としたのが始まりである。
日本城郭全集では、坂上田村麻呂の子孫 生地俊澄が築いた城とされている。
畠山氏滅亡後は織田・豊臣両氏に属したという。
城の規模は、紀伊續風土記によれば、「周三百五十間、東南北は高さ九間、西は平地、四間余の空堀あり」と記されている。
城跡は「城の内」にあり、土塁・空堀の一部が残っている。
また、城跡の北の尾根を「馬場の尾」と称し、方150mほどの平地で、出城跡といわれている。
吉田亘氏の「郷土・橋本市の城」によると、同城は、紀の川とその支流山田川にはさまれた台地の先端部に設けられた館城で、城域の北は、山田川に向かって、東は台地末端の、南は紀の川に臨んで三方が約八米の切り立った断崖状をなしていた。
城西側の土塁は、今も「鈴ケ森」と呼ばれ、小さな社が鎮座する台形の土木構築物として残され、その外側(西側)には、堀の跡が草木に覆われて残っている。
北の祠の前には、生地石見守の石碑が建てられている。
JR和歌山線紀伊山田駅下車、徒歩10分。
相賀大神社は、和歌山県橋本市市脇にある神社である。
祭神は、天照大神、伊邪那岐神、伊邪那美神である。
かつて相賀荘20ケ村の氏神で、豪族生地(おいじ)氏が神官であったと伝えられている。
相賀荘は、平安時代末期に高野山蜜厳院領として成立した。
その後、鎌倉時代に密厳院が大伝法院とともに根来に移って根来寺となると、相賀荘は根来寺領として引き継がれ、その時にこの神社は、相賀荘の鎮守として根来の三部権現を勧請したといわれている。
紀伊名所図会では「總社三部明神社」と書かれており、現在の社殿にも扁額が掲げられている。
境内では古くから市が営まれ、この市は中世には惣社之市といわれ、「市脇」という地名はこのことによる。
社前の石燈籠は、高さ1.8m、砂岩の六角形で竿部節間上段に「正平十年(1335年)十一月一日」、下段に「大師講衆敬白」と刻銘されている。
かつて根来寺の領地で繁栄した時代の面影を残す燈籠で、県の文化財に指定されている。
釣鐘は、元禄13年(1700年)の鋳造で、橋本市旧柏原村の鋳物工長兵衛の作である。
柏原村は、鋳造師の里として南北朝時代から知られ、伊都や大和の梵鐘が作られていた。
第二次世界大戦で供出されたが、終戦で改鋳を免れて戦後返却されたもので、供出の際につけられた小穴が残っている。
本殿裏には、市脇相賀古墳群が発見されている。
南海高野線橋本駅からバスで城の内住宅前下車、徒歩5分。
市脇相賀古墳群は、和歌山県橋本市の相賀大神社の北にある史跡である。
山田川と市脇川に挟まれた南に突き出した丘陵先端の南斜面に造られた古墳群で、昭和43年に橋本市の文化財に指定されている。
「紀の川用水建設事業に伴う発掘調査報告書」(昭和53年)によると、昭和44年(1969年)の段階ですでに開口している横穴式石室をもつ古墳が3基知られており、分布調査の結果、さらに5基の円墳が確認された。
すでに知られていた3基のうち1基は造成工事より消滅していたため、7基が残されていた。
1号墳は神社のすぐ背後にあり、古墳の南側は水路により削り取られている。径3.6m、高さ1.8mの墳丘規模で、内部主体は緑泥片岩を用いた割石積みの横穴式石室となっている。
石室は南に開口するが、羨道(遺体を納める部屋に至る通路)部は、ほぼ全壊しており、長さ2.8m、高さ1.5m、幅1.5mの両袖式の玄室(遺体を納める部屋)部が残存していた。
副葬品等は伝えられておらず、詳細は不明であるが、後期古墳に属するものとみられている。しかし、昭和の末期、台風による倒木のため崩壊した。
また、背後の斜面には4号墳から8号墳の5基の墳丘が認められるとともに、西方50mには2号墳が入口部分を破壊された状態で玄室のみが残っている。(現地の案内板から)
南海高野線橋本駅からバスで城の内住宅前下車、徒歩5分。
丹生山薬師院妙楽寺は、和歌山県橋本市にある真言律宗の寺院である。
弘仁11年(820年)嵯峨天皇の勅願寺で、大森の社の西に七堂伽藍を草創したといわれる。
その後、永仁年間(1293-98)に最明寺時頼が再興して現在地に移したが、寛正4年(1463年)に焼失した。
文明5年(1473年)僧悟阿が諸方に勧進して再建したが、天正年間、織田氏高野攻めの時、高野山の衆徒が焼き払ったといわれる。
当寺は、創建の頃僧空海の姪「如一尼」の居たところで、以後尼寺となり、永仁6年(1298年)関東から祈祷寺三十四箇寺を定めた内、尼寺七箇寺の一つである。
本堂が焼失したため、妙楽寺再建・再興委員会が一石一経による再建を目指している。
本尊の木造薬師如来坐像は、橋本市郷土資料館に保管されている。
なお、この寺院の梵鐘は第二次世界大戦中に供出されたが、戦後幸いにして残され、原田教善寺の什物となっている。
また、嵯峨天皇の女御とち姫宮に供奉して当寺に移った青待之衆一二人の記録の写しが残されている。
南海高野線、JR和歌山線橋本駅下車、徒歩7分。
長薮城跡は、和歌山県橋本市慶賀野、細川の標高347mの山の斜面にある山城跡である。
地元の人々は、この山を城山と呼んでおり、昭和51年(1976年)から造成が開始された新興住宅地は、1979年に城跡に因んで城山台と名付けられた。
紀伊続風土記の細川上村「長薮城址」の項に「村の西山上にあり、牲川(贄川)氏の城址なり」と記されており、在地武士の贄川義春が文明年間(1469-87)に築いた城とされている。
贄川義春の父左衛門頼俊は、楠正成に仕えたが、千早落城後は十津川に住んだ。
文明年間に十津川の野武士とともに伊都郡に入り、紀伊守護畠山氏の幕下となり、一万石を領して橋谷川流域の谷内郷といわれた13村の支配拠点とした。
東西600mの規模の山城で、三つの峰に「東の城」、「西の城」、「出城」という別郭(べつくるわ)を有していた。
橋本市郷土資料館に、約1300分の一の長薮城の模型(吉田亘氏制作)が展示されている。
現地には、道標等は設置されていないため、公的機関等の案内がある時にあわせて見学するのが良い。
三つの峰を回るのに、約1時間必要で、急な坂もあるため、登山靴や運動靴で行くのが望ましい。
南海高野線林間田園都市駅からバスで城山台センター下車、徒歩20分。
陵山古墳は、和歌山県橋本市にある横穴式円墳である。
「古佐田古墳」「田村将軍塚」「紀古佐美陵」などとも呼ばれている。
直径は約46m、高さ約6m、濠の幅6mで紀の川中流域では最大の円墳で、和歌山県の文化財に指定されている。
盛土は三段で、墳丘の段の肩に沿って円筒埴輪が埋められている。
南東方向には横穴の石室入口があり、前後に分かれた石室の側面には赤色顔料が塗られている。
明治26年(1893年)、昭和27年(1952年)、昭和47年(1972年)に発掘調査が行われ、勾玉や首の回りを防御する頚甲(けいこう)という鎧などが出土しており、5世紀末から6世紀初めごろに築造された有力氏族の墓と推定されている。
南海高野線、JR和歌山線の橋本駅下車、徒歩10分。