小浜城跡 小浜神社

小浜城跡、小浜神社は、福井県小浜市城内にある。
16世紀ころ蜘蛛の浜(のち雲浜と記し、「うんぴん」と呼称した)と呼ばれた当地の海岸一帯には、河川を遡上する魚を捕獲して生業を営む漁民が住んでいた。
関ヶ原の合戦の戦功で慶長5年(1600)に若狭国8万5千石の藩主となった京極高次は、慶長6年(1601)から小浜の山城 後瀬山城(のちせやまじょう)と山麓の旧守護館(武田氏の居館)を足がかりに、雲浜の浜に平城 小浜城(別称 雲浜城)の築城を開始した。小浜藩第2代藩主 京極忠高に至る33年間に城の大半を造り、京極家は松江(現 島根県)に転封となった。
寛永11年(1634)武蔵川越藩から小浜藩主となった酒井忠勝が築城を受け継ぎ、江戸城富士見櫓を手本にしたという天守閣の建設に着手し、寛永15年(1638)三層の天守が完成した。
その後明治4年(1871)まで、酒井氏15代260年間の居城となっていた。同年12月に小浜県庁が置かれたが、大阪鎮台第一分営設置工事中に二の丸櫓の工事場から失火し、城の大部分を焼失し、城郭の石塁を残すのみとなった。

本丸跡には、明治8年(1875)に旧藩臣らが建立した小浜神社が鎮座している。
祭神は、藩祖 酒井忠勝公と天御中主大神である。
酒井忠勝(1587-1667)は、江戸前期の譜代大名で、3代将軍徳川家光、4代将軍家綱時代の老中をつとめて、徳川幕府300年の礎を作った。常に江戸幕府に出仕し、小浜城に戻ったのは十数回で、延べ9か月ほどだという。
晩年 空印と号し、墓所は小浜市男山空印寺にある。
社殿東奥には八助稲荷がある。この稲荷のキツネが忠勝の使者として、若狭と江戸の往復したとの伝説が残されている。
社殿西側の井戸前には、古呂美橋の石がある。
「八百比丘尼がこの場で倒れたまま起きずして死す、故に名付けて古呂美橋という。京極家の地領の時に本丸に移す。」(向若録)
また、一説に酒井家の地領の時に雨傘などの防水塗料となるアブラギリの植え付けを命じた。これを扱う油屋は小浜で二百軒にもなり、京大坂で売られた。この実の形が石の形に似ており、その実のことが「ころび」と呼ばれていたという。



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