大江卓氏詩碑は、和歌山県橋本市高野口町にある。
大江卓(1847-1921)は、明治・大正期の政治家、実業家、社会事業家。天也(てんや)と号した。
弘化(こうか)4年9月25日、高知県宿毛市近くの栢島で土佐藩の下級武士の家に生まれる。
討幕運動に参加し、鳥羽伏見の戦いにも加わった。明治3年には兵庫県の湊川のほとりに住み、フロノ谷(宇治野)の部落の状況を見る機会があった。
そして明治4年(1871年)穢多非人(えたひにん)の廃止を民部省に建議した。
明治4年10月神奈川県令 陸奥宗光に起用されて、県七等出士となり、ついで参事となった。
陸奥は湘南に療養の時が多く、その代行として県政にあたったという。
翌1872年のマリア・ルーズ号事件に際しては神奈川県権令(ごんれい)として清国人奴隷を解放し、これを機に県下に遊女解放令を発布した。
1877年、西南戦争に呼応した反政府挙兵に失敗し、翌1878年入獄。1884年に出獄後は大同団結運動、立憲自由党結成に参加し第1回総選挙に当選するが、政府と妥協して失脚した。
財界に転じ1901年(明治34)京釜(けいふ)鉄道株式会社の創立に参加する。1913年(大正2)には融和団体帝国公道会を設立し、1914年出家して政財界との絶縁を宣言する。
以後、部落問題と取り組み、社会一般の啓蒙(けいもう)を行うが、治安対策的立場が強く、しだいに労働問題にも目を向けていった。大正10年9月12日死去。
大江卓氏詩碑が建てられている場所は、岡本弥(わたる)の出身地である。
岡本弥(1867-1955)は、旧端場村出身で、その祖先は旧土佐藩主長曾我部元親の遺子弥兵衛であるといわれている。
勉学熱心で、12歳の時に紀見峠を越えて大阪に行き、数千冊の本を購入して、手当たり次第に読破した。
その購入資金は、父が家宝の尾形光琳の屏風を売却した金百円を充てたもので、自宅に文庫を設けて、光風文庫(光琳の屏風)と名付けた。
明治30年ごろから融和運動に参加し、大正3年(1914年)には同志大江卓の来訪を受けた。
大正11年(1922年)には、「特殊部落の解放」を東京警醒社から刊行、大正13年(1924年)に岡本の提唱で「全国融和連盟」が創立された。
大江卓氏詩碑之記は、昭和11年に端場村の有志が、同氏の融和運動の功績を後世に伝えようと刻したもので、代議士松山常次郎が書いたものである。