於美阿志神社 桧隈寺跡は、奈良県明日香村大字檜前にある。
桧隈は、百済から渡来した阿知使主(あちのおみ)が居住したと伝えられる。
神社名の「於美阿志(おみあし)」の由来は、「阿志(阿知)」が氏族名で、「於美」とは「使主(おみ)」のことで、渡来人にたいする一種の尊称、姓として用いられたもので、朝鮮語の「オム」(親とか、首長という意味)であるという。
祭神の阿智使主(阿智王)は、後漢霊帝の曽孫で、倭漢直(やまとのあやのあたい)の祖として知られる。
日本書紀の応神天皇二十年九月の条には、
「倭漢直(やまとのあやのあたい)の祖、阿知使主(あちのおみ)、其の子都加使主(つがのおみ)、並に己が党類(ともがら)十七県(こおり)を率いて、来帰(もうけ)り」
と記されている。
「五郡神社記」には、於美阿志神社は磐橋(いわはし)神社と称されたとあり、近世、社地は宣化天皇檜隈廬入野宮(ひのくまのいほりのみや)跡とされ、神宮寺として桧隈寺の系統をひくという道興寺(どうこうじ)があった。
桧隈寺跡は、於美阿志神社の境内にある。
「日本書紀」天武天皇朱鳥元年(686)八月条に「檜隈寺、軽寺、大窪寺、各封百戸、限卅年」と記されており、
軽寺(橿原市軽)、大窪寺(橿原市大久保)とともに三十年に限って百戸が封じられていた。
天武天皇の病気平癒のためと推測されている。
跡地には、金堂跡、中門跡、塔跡、講堂跡、回廊跡と推定される遺構があり、礎石が遺されている。
伽藍は西を正面とし、塔を中心に右(南側)に金堂、左(北側)に講堂があり、金堂、講堂は塔側を正面とする特異な配置となっている。
現在跡地には、於美阿志神社石塔婆があり、明治42年に国の重要文化財に指定されている。
平安時代後期に造立されたと考えられており、もと桧隈寺塔跡の心礎の上にあったが、昭和44年の解体保存修理で積み直され、心礎は移動して保存されている。
もとは、十三重石塔であったが、上の二重と相輪は失われている。凝灰岩製で、現在の高さは4.3m。
解体修理に際し、地下から旧塔心礎と石塔の埋納物(ガラス製小壺、青白磁合子、蓋付須恵器四耳壺)が発見され、埋納物も国の重要文化財に指定されて、現在は奈良国立博物館に収蔵されている。
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