大物主神社(おおものぬしじんじゃ)は、兵庫県尼崎市にある。
祭神は、大物主大神(大国主命)、市杵島姫命(弁財天)ほかである。
社伝によると、第10代崇仁天皇の時代に、天皇が御幣を大物主大神に奉り病気平癒を祈願して大和の三輪山に大物主大神が祀られ、
大神八世の孫 大田田根子命の後裔 鴨部祝が祖神を当地に奉斎したのがはじまりである。
平治元年(1159)平清盛が芸州厳島神社を参拝した時、祭神 市杵島姫命をこの大物(だいもつ)の社に合祀した。
当時の大物の沖合は謡曲や浄瑠璃の 船弁慶千本桜などにも謡われている。
鎌倉時代は「若宮」と呼ばれていた大物の浦から船出した源義経主従も神社隣に宿をとり無事平安を祈ったといわれている。
その後寛永年間に宗像三柱神の故事にならって多岐都姫命、多紀理姫命を合祀し、また相殿神として西宮大神、菅原道真公等が配祀されている。
境内には、義経辨慶隠家跡の石碑及び汁醤油発祥地の石碑が建立されている。
義経辨慶隠家跡
義経辨慶隠家跡の石碑は、大物主神社拝殿の西横にある。
当初は、昭和3年(1928)昭和天皇即位を記念して、尼崎青年団、尼崎市在郷軍人聯合分会、尼崎婦人会、尼崎教育会の四団体の連合事業として行われた建碑事業の一環で、
神社東側の道路上に建てられていたが、太平洋戦争の空爆で焼失していた。
そのため、昭和54年(1979)に畑中修 宮司が、現在地に再建したものである。
大物は古くから瀬戸内海地域と大坂を結ぶ水上交通の要所として栄えた。
平家物語や吾妻鏡には、都落ちした源義経が西国へ下るため大物から出船したとあり、謡曲「船弁慶」では、大物浦から出船した義経一行に平知盛の怨霊が襲い掛かる様子が描かれている。
人形浄瑠璃 文楽 時代物の三大名作の一つとして知られる「義経千本桜」渡海屋・大物浦の段では、
源頼朝から追討される源義経、弁慶主従が、九州の尾形を頼って船出するため、平知盛が変装した渡海屋銀平の宿に逗留する様子が、次のように描かれている。
時 元暦二年(1185)八月二十八日あるいは文治元年(八月改元)九月
所 摂津国尼崎大物の浦、渡海屋銀平内
夜毎日ごとの入船に 浜辺賑ふ尼が崎、大物の浦に隠れなき 渡海や銀平 海をかかへて船商売
店は碇帆木綿(いかりほもめん) 上り下りの積荷物 はこぶ船頭水主(かこ)の者 人絶のなき船問屋 世をゆるかせに暮しける
(出典 竹田出雲 並木宗輔 浄瑠璃集 新日本古典文学体系93 1991年)
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