史跡御室御陵伝承地(静覚入道親王の墓所)

史跡御室御陵伝承地(静覚入道親王の墓所)は、和歌山県高野町花坂にある。
墓所は、花坂の山の斜面にあり、静覚入道親王(1439-1503)の御陵と伝えられてきた場所(伝承地)である。
静覚入道親王は、伏見宮邦康親王の子で、後に後花園上皇の猶子(養子)となった。
仁和寺門跡第十八代であったが、応仁の乱(1467-1477)による京の混乱と荒廃のため、応仁2年(1468)高野山の光臺院に逃れ、静覚入道親王は後光臺院と称したという。
その後仁和寺領の高野山麓花坂に隠棲し、三十余年を経て文亀3年(1503)に65歳で薨去した。

高野山名所圖會(明治37年刊)の「皇族の登御」には次のように記されている。
    後光臺院御室静覺親王
 静覺(せいかく)親王は後花園天皇の御猶子なり。應仁二年二月御登山、去(さる)元年京洛の大亂の爲め御室兵燹(へいせん)によりて高雄に遁れ玉ひ後ち當山に遁れ玉ひしなり。

高野春秋編年輯録には、次のように記されている。
 
   應仁二戊子年(1468)(中略)二月
    靜覺親王御住山于光臺院。依京都大亂御室兵火也。
    京中洛外。亂奪狼藉。(後略)

   文龜三癸亥年(1503)(中略)秋七月十五日
    後光臺院御室靜覺親王圓寂。行年六十五也。(中略)
    墓所在花坂村鳴子明神社三町許北方。(後略)

御室御陵は戦前、戦中期まで地域住民の手によって祀られてきた。
平成27年(2015)10月には、高野町により発掘調査が行われ、平成27年に高野町の史跡に指定された。
JR和歌山線笠田駅からタクシーで約30分。花坂西交差点から徒歩2分。

五輪塔について
2012年に刊行された「高野山結界道、不動坂、黒河道、三谷坂及び関連文化財学術調査報告書」によると、
当地中央の五輪塔は「伝静覚法親王(陵墓)一石五輪塔」(高さ82.8cm)と記され、奥西側の五輪塔は「伝静覚法親王(陵墓)五輪塔」(高さ51.6cm)と記されている。






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