小野篁卿墓、紫式部墓所

小野篁卿墓、紫式部墓所は、京都市北区紫野西御所田(ごしょでん)町にある。
堀川通から西に入ると、向かって右側に小野篁卿墓、左側に紫式部墓が並んでおり、紫式部顕彰会の石碑が建立されている。

当地から西方にある雲林院には、「源氏物語ゆかりの地」の案内板があり、京都市の記した案内文には、墓所について次のように紹介されている。
「ここより東方三六〇mの堀川通の西側には紫式部と小野篁の墓伝承地がある。」

倉本一宏氏は、紫式部の墓所について、次のように記している。(「紫式部と平安の都」)
さて、「源氏物語」のあまりの名声ゆえに、後世、紫式部が観音の化身だったという伝説が生まれた。
その逆に、色事を中心とした絵空事を書いて人々を惑わしたというので、仏教の五戒の一つである「不妄五戒(ふもうごかい)」を破ったとして、紫式部が地獄に堕ちて苦しんでいるという伝説も生まれた。(「宝物集(ほうぶつしゅう)」「今物語」「雨月物語」)
それと関連して、地獄とこの世を行き来する冥官(めいかん)説話のある小野篁によって地獄から助け出されたという伝説も生まれ、紫野にある二つ並んだ土盛りが、「紫式部の墓・小野篁の墓」と称されている。
この「紫式部の墓」は、すでに室町時代初期に著わされた「河海抄(かかいしょう)」にも、紫式部の墓は雲林院の塔頭である白毫院の南にあると記されているから、この土盛りのことを指している可能性がある。
堀川通の北大路から下った島津製作所の北隣にあり(現京都市北区紫野西御所田町)、「紫式部顕彰会」(角田文衛会長)による顕彰碑が建っている。
もちろん、もとより伝説の世界の話である。

小野篁(おののたかむら)(802-852)は、平安時代の漢詩人、歌人。小野妹子の子孫で、父は「凌雲集」の選者 小野岑守(みねもり)。
参議に任ぜられて、野宰相(やさいしょう)、野相公(やしょうこう)などと呼ばれ、冥官(みょうかん)とする蘇生説話などで知られる。

紫式部は、平安中期の物語作者、歌人。「源氏物語」「紫式部日記」「紫式部集」の作者。生没年及び本名は未詳。
父は、当時有数の学者、詩人であった藤原為時。長徳2年(996)越前守となった父とともに北陸に下り、翌々年帰京。
父の同僚であった山城守右衛門佐の藤原宣孝と結婚、翌年賢子(のちの大貮三位(だいにのさんみ)を産んだ。
長保3年(1001)宣孝が病死し、その後「源氏物語」を書き始め、寛弘2年(1005)一条天皇の中宮 彰子のもとに出仕した。
はじめ「藤式部」やがて「紫式部」と呼ばれるようになる。紫は源氏物語の女主人公 紫の上にちなみ、式部は父 為時の官職 式部丞による。
→ 紫式部ゆかりの地



TOP PAGE  観光カレンダー
TOP PAGE  观光最佳时期(旅游日历)