琳光寺 長寿院盛淳の墓は、岐阜県大垣市にある。
長寿院(ちょうじゅいん)盛淳(もりあつ)(せいじゅん)は、護国山(ごこくざん)安養院(鹿児島県)の住持を務める傍ら、島津義久に仕えた。
子孫が、阿多姓を称したため、阿多盛淳、阿多長寿院とも称される。
盛淳は、後に島津義弘に力量を見込まれ家老に登用されると、善政を施し戦陣では数多くの手柄を立てた。
関ヶ原の戦いでは、本戦の前々日に薩摩(鹿児島県)から大垣城に駆けつけ、義弘はその参陣を大いに喜んだという。
戦いの当日、西軍の敗北が決定的になると、義弘は敵中突破を敢行し、伊勢街道を南下して撤退する。
猛追する東軍に対し、島津隊は「捨て奸(すてがまり)」で対抗し、副将を務めた義弘の甥 島津豊久らが烏頭坂(うとうざか)(上石津町牧田)で奮戦するものの、
義弘の本隊は、当地の牧田上野(まきたうえの)(上石津町牧田)で井伊直政に追いつかれた。
盛淳は、豊太閤から拝領した義弘の陣羽織を身に着け、「我こそは義弘也」と名乗って、主君の身代わりとなって従士と共に討死した。
この頃、徳川家康が追撃中止を命じたため、関ヶ原の戦いは終結した。
島津義弘は、昼夜を問わず時山(ときやま)(上石津町)から五僧(ごそう)(岐阜・滋賀の県境の峠)越えで保月(ほうげつ)を抜け、近江(滋賀県)へと逃れたとも、駒野(海津市南濃町)を経て近江や伊勢へ逃れたともいわれている。
千五百余といわれる島津隊のうち、義弘に付き従って薩摩に帰還できたのは、80ばかりであった。
琳光寺本堂横に、「長寿院阿多盛淳之墓」と刻された墓石がある。
琳光寺の寺宝として、絹本著色不動明王像を有している。
本堂前には、親鸞聖人の像が建てられており、横の石碑には、親鸞聖人の歌が記されている。
明日ありと
思う心の
あだ桜
夜半(よわ)に嵐の
吹かぬものかわ
親鸞聖人
JR東海道線関ヶ原駅からバスで上野西下車、徒歩2分。
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