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向井将監供養塔
相模 三浦 向井家墓所は、和歌山県高野山奥の院にある。
奥の院32町石南の 法然上人(圓光大師)供養塔に隣接(一の橋側)している。
「高野山奥の院の墓碑をたずねて」(奥の院案内地図)には、向井将監供養塔と記されている。
当墓所には、「舎利塔式」と呼ばれる2基の供養塔がある。(水原堯榮氏「高野山金石図説」ほか参照)
| 写真番号 | 供養者名 | 没年 | 法名 | 供養塔の刻文 |
| ① | 向井直宗 (忠宗) |
正保元年 (1644) |
俊嚴院殿 崇安禪心大居士 |
(正面) 相刕三浦領主向井右衛門佐殿 爲俊嚴院殿崇安禪心大居士 源朝臣直宗春秋三十九卒 (右面) 慈父□ 左近将監忠勝 (裏面) 正保二年乙酉 六月十七日 (左面) 施主孝子 向井右門太郎殿 爲父一周忌建之 |
| ② | 向井直則 | 正保4年 (1647) |
玉洞院殿 天瑞宗因信士 |
(正面) 相刕三浦後領主 爲玉洞院殿天瑞宗因信士 向井右衛門太郎源朝臣直則 (右面) 正保四年十月十一日 (裏面) 梵字 宿坊 般若院 奉行 梅本小右衛門 (左面) 施主悲母清光院殿建立 |
向井将監(忠勝)(1582-1641)は、江戸時代前期の武将である。
天正10年に向井正綱の長男として生まれた。父の跡をついで向井水軍の長となり、徳川秀忠につかえた。→ 向井水軍概説
大坂冬の陣において、九鬼水軍と共に伝法口の海戦で功をたてた。
子孫は幕府水軍の船手頭(ふなてがしら)の地位を世襲し、幕末まで代々「向井将監」を名乗った。
向井直宗(忠宗)(右衛門)(1607-1644)は、忠勝の二男として生まれた。
慶長19年(1614)将軍徳川秀忠(台徳院殿)に拝謁した。
寛永18年(1641)12月4日父 向井将監の跡をついで5千国を知行し、三崎、伊豆の御番役を継承した。
正保元年(1644)6月17日没。38歳。墓所は、三浦市見桃寺にある。
向井直則(右衛門太郎)は、直宗の長男として生まれた。
父の死により、正保元年(1644)12月に跡を継ぎ、正保4年(1647)6月17日没。

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