西行墳は、大阪府河南町の弘川寺本堂の北西側にある。
西行(円位)上人は、空寂座主の法徳を慕って弘川寺に来て、建久元年(1190年)2月16日に当地で生涯を終えた。
その後江戸時代に、歌僧似雲法師は、「五畿内志」の作者並河五一郎から、西行上人終焉の地は藤原俊成の歌集「長秋詠草」の所載により、河内国弘川寺であると教えられ、
江州石山寺に祈願ののち、享保17年(1732年)2月16日に西行の墓と考えられる古墳を発見した。
似雲法師は、その後西行堂を建立し、「花の庵」を建てて住み、西行の顕彰に尽くして81歳で亡くなった。
西行墳前には、尾山篤二郎筆の西行の次の歌碑が建てられている。
「願はくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの望月のころ」
また、西行墳に向かう形で、似雲法師の似雲墳がある。