佐太天神宮は、大阪府守口市佐太中町にある。
「佐太天神宮記」などによると、菅原道真公が左遷で大宰府に流される途中、荘園であった当地に滞在した時、自作の木像や自画像を残したといわれている。
菅原道真没後五十年を経た天暦年間(947-957)に、道真公を慕って祠が建立されたのが、当社の創建であると伝えられ、室町時代には、大庭庄の惣社として崇敬されるようになった。
江戸時代に入り、菅原道真の後裔と称する淀藩主 永井尚政、尚庸父子や淀屋辰五郎等の支援を受けて整備が進められた。慶安元年(1648)の銘のある門の石柱は、永井氏が寄進したものである。
現在の本殿は寛永17年(1640)の再建、拝殿は1648年の建築であることが、棟札から確認されており、江戸初期の重要な建造物として、大阪府の文化財に指定されている。
当社には、文安三年(1446)の箱書のある紙本著色天神縁起絵巻六巻が残されており、箱書からこの絵巻は、奈良興福寺絵所芝座の絵師 観深が描いたものであることがわかる。
永井公から寄進された狩野探幽の十一面観音画像をはじめ江戸初期の美術作品が多く残されている。
また大和守安定(やすさだ)の刀とその拵(こしらえ)である金梨子(きんなし)地塗糸太刀拵は、江戸初期寛文十年(1670)の銘があり、大阪府有形文化財に指定されている。
本殿東側には、与謝蕪村の句碑(窓の灯の 佐太はまだ寝ぬ 時雨かな)が建立されている。
本殿西北には、白太夫社がある。
人形浄瑠璃の「菅原伝授手習鑑」は、全五段の時代物で、菅丞相(かんしょうじょう)(菅原道真)の左遷から天神として祀られるまでの経緯が描かれている。
三段目は、車曳(くるまびき)の段、佐太村の段からなり、佐太村居住の白太夫(四郎九郎)、その子 梅王丸、松王丸と、桜丸切腹の悲劇が次のように語られる。
一番村では年古き人に知られし四郎九郎 律儀一遍とりえにて菅丞相の御領分 佐太に手軽き下屋敷 (中略)
白太夫は片時も早く、菅丞相の御跡慕ひ、島へ赴く現世の旅立ち
桜丸が魂魄は 未来へ旅立ち
「この亡骸、梅王夫妻頼むぞ」と八重がことまでつどつどに 頼む詞の置き土産。冥途の土産はただ念仏。(中略)
亡骸送る親送る 生きての忠義死したる義臣(心)
一樹は枯れし無常の桜 残る二樹は松王、梅王、三つ子の親の住み処
末世にそれと白太夫 佐太の社の旧跡も 神の恵みと知られける
京阪バス佐太天神前下車徒歩7分。
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