佐藤継信の墓、名馬 太夫黒の墓は、香川県高松市牟礼町にある。
平成18年に高松市の史跡に指定されており、当地の案内板には、次のように記されている。
佐藤継信の墓
源平合戦の際、義経の身代わりとなって戦死した佐藤継信の墓です。
寛永二十年、松平頼重公が新しく墓石を建てて、その忠死を称えました。
昭和六年五月、継信三十世の孫、山形県人佐藤信古氏が更に大修築を加えて面目一心しました。
”胸板をすえて忠義の的に立ち”
太夫黒の墓
この墓は継信の墓域内の右奥にあります。
この馬はもと後白河法皇から義経に賜ったもので、継信の忠死を称揚する余りに、義経はこの馬を志度寺の覚阿上人に施して菩提を弔わせました。
太夫黒がたおれて後、ここに埋めたといわれています。
源平屋島合戦八百年祭準備実行委員会
もとは、現在地の後の王墓池(平田池)の地にあったが、正保2年(1645)にこの池を築造した時、現在地に移された。
寛永20年(1643)に初代高松藩主 松平頼重が新たに墓石を建立しており、その後ろには五輪塔の墓石がある。
新たな墓石には、「佐藤次信墓」(表面)「寛永癸未仲夏上浣建之」(裏面)と刻されている。(仲夏は陰暦五月、上浣は上旬の意味)
その後、昭和6年(1931)の大改修で、佐藤氏念祖碑や鎌田兵衛慰疑塚碑が建てられた。
佐藤継信(1158-1185)は、鎌倉初期の武将である。
陸奥国(むつのくに) 信夫庄司元治(しのぶのしょうじもとはる)の子で忠信の兄。
源義経の乳母子(めのとご)で、かつその家臣。
義経が奥州藤原秀衡の下にあったころから仕え、弟の忠信、鎌田盛政、光政とともに義経四天王の一人に数えられた。
元暦2年2月19日の屋島の戦いに際し、平家の勇将 能登守教経(のとのかみのりつね)の強弓から義経を守り、その矢面に立って戦死した。
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