清凉寺は、京都市右京区にある寺院である。
五台山と号する浄土宗の古刹で、「嵯峨釈迦堂」の名で知られている。
この地には、一説では「源氏物語」の主人公の光源氏のモデルであったといわれる源融(みなもとのとおる)の山荘 棲霞観(せいかかん)があり、融の没後、棲霞寺(せいかじ)としたのが当寺の始まりである。
天慶8年(945年)に等身大の釈迦像が安置され、これが通称の由来ともいわれている。
本尊の釈迦如来立像(国宝)は、釈迦37歳の生き姿を刻んだものと言われている。
釈迦が生母である摩耶夫人に法をとくために忖利天(とうりてん)に登ったとき、時の優塡王(うでんのう)や弟子たちは慈母を失った子供のようになげき悲しんだ。
そこで、優塡王は、毘首竭摩(びしゅかつま)に命じて、栴檀の香木で釈迦生身の尊像を作らせた。
90日後釈迦が戻ってきて、自分と寸分違わぬこの像を見て「私が亡きあとはこの像が私に替わって衆生を済度するであろう」と大変喜んだ。
のちにこの像は、インドからヒマラヤを越え中国へ伝えられた。中国に渡った東大寺の僧、奝然(ちょうねん)上人が寛和元年(985年)その像を模刻して日本に持ち帰った。
そして奝然(ちょうねん)上人が、その像を安置するため、愛宕山を中国の五台山に見立てた「大清凉寺」の建立を計画したが、志半ばで没したため、弟子の盛算(じょうさん)が清凉寺を建立して像を安置した。
昭和28年(1953年)、背中に蓋が発見され、中に内臓を模した絹製の五臓六腑などが納められていた。
本堂は、元禄14年(1701年)に徳川五代将軍綱吉、その母桂昌院らの発起により再建された。
霊宝館には、阿弥陀三尊像(国宝)、文殊菩薩騎獅(きし)像(重要文化財)等、多数の文化財が展示されている。
本堂西横の豊臣秀頼公の首塚は、昭和55年、大阪城三の丸跡地の発掘現場から出土した秀頼公の首を、昭和58年、秀頼公再興の由緒を持つ当寺に納められたもので、首に介錯の跡がある。
境内には、奝然上人、源融の墓、嵯峨天皇・檀林皇后宝塔などがある。
京都市バス嵯峨釈迦堂前下車すぐ。参拝者用の有料駐車場がある。