清凉寺は、和歌山県橋本市にある寺院である。
山号は、嵯峨山で、本尊は薬師如来である。
寺伝によれば、弘仁年間(810〜823)に弘法大師空海によって開創され、創建時の本尊は嵯峨天皇と弘法大師空海の合作と伝えられている。
延宝5年(1677年)に大畑才蔵が記した「学文路組指出帳」や江戸後期に紀州藩が編纂した「紀伊続風土記」にも同様の開創伝承が記され、当時は伊都郡内でも数少ない京都仁和寺の末寺であった。
前出の記録類には、清凉寺が七堂伽藍を備え、寺内に十二坊を有する大寺であった旨の記述がある。
伽藍とは、別の記録には本堂以外に楼門の南門を中心に四方の門、多宝塔、不動堂、釈迦堂、観音堂、経堂、境内社等がみえる。
慈尊院が高野参詣道の表玄関口として栄えた頃には、清凉寺は慈尊院並んで参詣者を宿泊させる施設があったものとみられる。
この名残は、南北朝以来の通称とみられるが、慈尊院の「女人高野」に対し、清凉寺は「口の高野」と称された伝承がある。
慈尊院の本尊弥勒菩薩に対し、清凉寺の本尊薬師如来は、西の未来仏に対し、東の過去仏といった位置関係にあることも、これらの関係を暗示している。
応永元年〜三年(1394年〜96年)の当地域である官省符荘の土地調査である「検注帳」に登場する「佐賀(サガ)御堂」や「薬師堂」とあるのが清凉寺とみられ、当時地域の有力寺院であった。
以降、火災に遭ったり、寺領の退転があって近世初頭には、現在のような境内になっていたと思われる。そうした中、万治年間(1650〜60)に仁和寺の宮門跡から山号、寺号、院号等の令旨が清凉寺に与えられていた記録がある。
境内社の八坂神社は元来、祇園神社と称し、本地垂迹説に基づいて、本尊薬師如来を本地とし、垂迹した牛頭天王(須佐之男命)を祭祀している。
清凉寺の南西に「祇園神木一本木」があって、境内社の御旅所となっていた。
近世の記録類には、清凉寺の境内に隣接した東の長方形の微高地を「嵯峨の段」とあるのが、往時の本堂跡と思われる。
JR和歌山線高野口駅下車、徒歩20分。