信州松本水野家供養塔は、和歌山県高野山奥の院21町石北東にある。
「信州松本水野家墓所」と書かれた案内標柱の建てられた北玉垣内に6基の五輪塔、墓道を挟んで南側に3基の五輪塔が建てられている。
史跡金剛峯寺境内(奥院地区)大名墓総合調査報告書等によると、北側から順に下記藩主等の供養塔が紹介されている。
位置 | 藩主名等 | 没年等 | 法名 | 備考 |
北玉垣内 6基 五輪塔 |
2代藩主 水野忠職室 | 寛文2年(1662) | 青陽院 | |
2代藩主 水野忠職(ただもと) | 寛文2年(1662) | 道樹院 | ||
5代藩主 水野忠幹(ただもと) | 享保8年(1723) | 徳本院 | ||
判読困難 | ||||
2代藩主 水野忠職母 | 正保4年(1648)逆修 | 福壽院 | ||
初代藩主 水野忠清 | 正保4年(1648) | 真珠院 | ||
南3基 五輪塔 |
3代藩主 水野忠直室 | |||
3代藩主 水野忠直 | 正徳3年(1713) | 賢徳院 | ||
4代藩主 水野忠周(ただちか) | 享保3年(1718) | 智徳院 |
松本藩は、小笠原、松平戸田、松平越前、堀田と譜代の藩主が続き、寛永19年(1642)水野忠清(1582-1647)が、三河吉田4万石から、松本藩主(7万石)となり、水野家の統治が80年ほど続いた。
その後、6代藩主 水野忠恒が享保10年(1725)毛利師就に対し刃傷事件を起こしたため領地を没収され、水野家は旗本となったが、水野忠友が大名に復帰して、三河大浜藩、駿河沼津藩を経て、老中も務めている。
TOP PAGE 観光カレンダー
TOP PAGE 观光最佳时期