信州飯山 佐久間家供養塔

信州飯山 佐久間家供養塔は、和歌山県高野山奥の院26町石西にある。
奥の院中の橋の手前約50mの参道左側(北側)奥にある。
史跡金剛峯寺境内(奥院地区)大名墓総合調査報告書Ⅰによると、
当地の「信濃飯山藩佐久間家墓所」には、大型五輪塔4基、中型五輪塔5基、中型無縫塔1基、中型宝篋印塔1基、小型墓標7基等があり、
主な石塔は次のとおりである。(岩堀元樹氏「高野山奥之院墓碑総覧」参照)

 写真番号  供養者名  没年  法名  備考
 ① 信濃飯山藩
初代藩主
佐久間 安政
寛永4年
(1627)
徳翁院殿
功岸玄忠大居士
寛政重修諸家譜では、
 「廣岸玄忠徳王院」
 ② 信濃飯山藩
2代藩主
佐久間 安長
寛永9年
(1632)
多福院殿
蓮雲宗光大居士
 
 ③ 信濃飯山藩
3代藩主
佐久間 安次
寛永15年
(1638)
大雄院殿
徳用宗麟大禅定門
 

飯山藩(長野県飯山市)は、初期の皆川家以降、堀、佐久間、松平桜井、永井、青山、本多の各藩主が治めた。
領内に千曲川があり、歴代藩主は治水で苦労したという。

佐久間安政(1555-1627)は、弘治元年に織田信長の家臣 佐久間盛次の次男として生まれ、保田知宗の養子となり、保田を称した。母は柴田勝家の姉である。
佐久間信盛に属し、のち柴田勝家に従い、賤ケ岳の戦いで羽柴秀吉に敗れて、紀州を経て小田原の北条氏政を頼った。
北条氏滅亡後、秀吉にゆるされ、蒲生氏郷に仕えた。この時に本姓の佐久間に復している。
関ケ原の戦いでは東軍の徳川方に加わり、大坂の陣でも戦功をたて、元和2年(1616)信濃飯山藩佐久間家初代藩主(3万石)となった。
寛永4年4月25日病没(73歳)。墓所は、江戸芝広院(或曰 泉岳寺)、二本松榎広岳院(寛政重修諸家譜)。

佐久間安長(1611-1632)は、佐久間安政の次男として生まれた。兄の勝宗が父に先立ち病没したので、寛永5年(1628)18歳で父の後を継いだ。寛永9年4月12日病没(22歳)

佐久間安次(1630-1638)は、佐久間安長の長男として生まれ、父の死により寛永9年(1632)に3歳で跡を継いで、第3代藩主となった。寛永15年11月20日9歳で病死した。
佐久間家は無嗣絶家となり、こののち幕府の使番蒔田定正が、一時飯山城目付を命じられた。



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