勝楽寺

慶雲山勝楽寺は、滋賀県犬上郡甲良町正楽寺にある臨済宗建仁寺派の寺院である。
建武4年(1337)佐々木高氏(京極道誉)は、本拠地であった坂田郡柏原(米原市)からこの地に移り、勝楽寺山に勝楽寺城を築いて、麓に居館を設けた。
その後、暦応4年(1341)に京都東福寺の雲海禅師を招き、京極家(佐々木家)の祈願所として勝楽寺を建立した。
寺号は、道誉の諡号勝楽寺殿徳翁道誉によって命名したという。
字名も明治時代のはじめ大字正楽寺と改めるまでは、勝楽寺と称していた。
佐々木高氏(道誉)(1296-1373)は、京極氏の祖である佐々木氏信の孫にあたり、31歳の時、鎌倉幕府14代執権北条高時とともに出家して道誉と号した。
建武の中興以来、終始足利尊氏に従い、室町幕府成立に貢献し、若狭、上総、近江、出雲、飛騨、摂津等の守護職及び諸国の地頭職を授けられ、幕府評定衆となり、京極家の地位を確立した。
旧来のしきたりや伝統的権威を無視する派手で傍若無人な振る舞いから「婆娑羅(ばさら)大名」と呼ばれた。
一方で、能、狂言、申楽などのほか、茶道、連歌などにも精通し当代一流の文化人としても知られる。

創建当時の寺観は見られないが、兵火を免れた室町時代の様式を残す切妻造の六脚門がある。
収蔵庫に安置されている大日如来坐像(重要文化財)は、恵心僧都の作と伝えられ、道誉の念持仏といわれている。
絹本著色佐々木道誉画像(重要文化財 京都国立博物館寄託)は、精巧な色彩で描かれた肖像画で、三男高秀が道誉の還暦に合わせて描いたもので、貞治五年(1366)の自賛がある。
本堂北側の墓地には、佐々木道誉公墓がある。
南北朝期の宝篋印塔婆として大名にふさわしいもので、兵火の際に塔身の一部が欠損している。
   道誉 (勝楽寺殿 前廷尉 徳翁道誉 大居士)
   応安六年(1373)八月二十五日卒
佐々木道誉の墓は、当地のほかに、徳源院(米原市)の京極家歴代墓所にもある。
勝楽寺の境内脇の勝楽寺城跡の登り口には、大日池がある。
元亀元年(1570)七月、織田信長の兵火により、ほとんどの堂宇が焼失したが、大日如来像は、村人たちの機転でこの地に埋めて難を逃れた。
鎮火後掘り出してみると、ここから水が湧き出し、以来涸れたことがなく大日池と呼ばれている。
城跡への途中に、一字一石の法華経を納めた経塚があり、狐塚と呼ばれる。
赤い鳥居と祠があり、この狐塚は狂言「釣狐」の発祥地であるといわれ、寺地の近くは近江猿楽発祥地といわれる。
JR東海道線河瀬駅からバスで正楽寺口下車、徒歩10分。


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