称念寺、伊達家・陸奥家 墓所跡、夕日岡(夕陽丘)命名の地は、大阪市天王寺区にある。
当地の案内板には、次のように記されている。
伊達家・陸奥家 墓所跡
向かって右側の石碑を「夕日岡阡表(ゆうひがおかせんぴょう)」といい、陸奥宗光が先考(実父) 伊達宗広の行実を漢文で述べたものである。
伊達宗弘は紀州藩の重臣で、政敵によって蟄居させられたが、赦免後脱藩して、主に京都で勤王活動を行った。
鎌倉初期の歌人、藤原家隆を敬愛していた宗弘は、明治初期、この地に来て、この地の風趣を愛し、自分も家隆卿の傍に眠らんと、自在庵を建てた。
また家隆卿の和歌にちなんで、当地を「夕日岡」と名づけ、伊達・陸奥一族の墓地と定めた。宗弘は明治十年、東京で亡くなったが、遺言により夕日岡に葬られた。
以来、陸奥宗光を始め、妻子など合わせて九人の人々が葬られた。しかし、子孫によって、昭和二十八年に墓は鎌倉にある寿福寺境内に改葬された。
当時の遺構はまだこの地に残っており、その一つが清地蔵(さやじぞう)である。清子(さやこ)は宗光の愛娘で二十歳で夭折した。宗光夫妻はその死を悼み、等身大の地蔵をその墓前に立てた。
向かって右側の石碑は、陸奥宗光が外務大臣の折り、外務次官だった原敬が、十年忌に宗光を偲んで建てた碑である。平民宰相、原敬は宗光を敬愛していた。
陸奥陽之介(源二郎)宗光は、天保十五年(一八四四)、紀伊和歌山城下に生まれた。二十歳ごろ勝海舟の弟子となり、神戸海軍塾で学ぶ。また、坂本龍馬の知遇を得て、亀山社中・海援隊に加わり、龍馬の副官格として活躍した。
龍馬が殺害された後、紀州藩士三浦休太郎が龍馬殺害の主犯者と考えた宗光らは、三浦を襲撃し、護衛していた新撰組と闘った。これが天満屋事件(京都)である。
維新後は、県知事を歴任し、また、外交官としても活躍する。不平等条約の改正に力を尽くし、日清戦争時の外交を取りまとめた。下関講和会議では全権として奮闘し、露独仏の三国干渉に至るまでに宗光が果たした外交手腕は特筆すべきものである。
明治三十年(一八九七)八月二十四日没。享年五十三歳、当地に埋葬された。
また、この地には薩摩藩家老、小松帯刀清廉(こまつたてわききよかど)が埋葬されていた。幕末時、薩摩藩の重臣だった小松は、薩長同盟や大政奉還などを推進した。明治初年には参与として大阪にも在勤し、明治三年(一八七〇)七月二十日、大阪で亡くなった。
「墓陵(ばくりょう)は、天王寺村之内家隆塚有之夕日の岡ト申ス所、摂海見はらし至極眺望宜教所(しごくちょうぼうよろしきところ)ニ御座候(略)」と、薩摩藩士 木場(こば)伝内が大久保一蔵(利通)に宛てた書簡に記している。
大久保や五代友厚が、小松の墓参りに夕日岡を訪れている。その後、明治九年(一八七六)鹿児島に改葬された。
平成二十二年 百済山(くだらさん) 稱念寺