忠盛塚 平氏発祥伝説地

忠盛塚 平氏発祥伝説地は、三重県津市産品(さんぴん)にある。
一般に「忠盛塚」と呼ばれ、「平氏発祥伝説地」として三重県の史跡に指定されている。
中央にある塚は、平忠盛が生まれたときの胞衣(えな)を埋めた「胞衣塚」ともいわれ、忠盛が産湯を使ったとされる産湯池も残っている。

桓武天皇の曽孫高望王(たかもちおう)を祖とする平氏は、初め東国に土着し勢力を持っていた。
しかし、平将門の乱や平忠常の乱以降、東国は源氏の地盤となり、貞盛の子 維衡(これひら)の時に、伊勢・伊賀を本拠地とすることとなり、寛弘3年(1006)維衡は、伊勢守に任じられている。
平維衡の孫が平正盛で、正盛の長男が平忠盛である。

平忠盛(1096-1153)は、平安時代末期の武将で、平清盛の父である。
白河法皇の寵を得て検非違使、越前守、伊勢守、備前守などを歴任し、白河法皇が没すると鳥羽上皇の近臣として活躍し、荘園の支配に腕を振るい、日宋貿易にも関わった。
そうした経済力を背景にして、長承元年(1132)鳥羽法皇のために得長寿院(とくちょうじゅいん)を造進し、その功で内裏での昇殿を許され、やがて刑部卿(ぎょうぶきょう)にまで進んだ。
忠盛は平氏繁栄の基礎を着実に築き、仁平3年(1153)正月15日58歳で没した。

忠盛の隆盛と昇進は貴族層の反感を招き、斜視を嘲弄されたり、殿上での闇討ちなどの話が残されており、平家物語巻一「祇園精舎」に続く「殿上闇討」では、つぎのように語られる。
    殿上闇討(でんじょうのやみうち)
 しかるを忠盛備前守たりし時、鳥羽院の御願、得長寿院を造進して、三十三間の御堂(聖護院辺りにあった千体観音堂で、今の三十三間堂はこれにならって後世に建てられた)をたて、一千一体の御仏をすゑ奉る。(中略)
上皇御感のあまりに、内の昇殿をゆるさる。忠盛三十六にて始めて昇殿す。
 雲の上人是を猜(そね)み、(中略) 五節豊明の節会(ごせつとよあかりのせちえ)の夜、忠盛を闇打にせむとぞ擬せらりける。(中略)
 忠盛御前の召に舞はれければ、人々拍子をかへて「伊勢平氏はすがめなりけり」とぞはやされける。
此人々はかけまくもかたじけなく、柏原天皇(桓武天皇御陵が柏原にあった)の御末とは申しながら、中比(なかごろ)は都の住ひもうとうとしく、地下(じげ)にのみ振舞なって、
伊勢国に住国深かりしかば、其国のうつは物に事寄せて(伊勢産の瓶子(徳利)は粗悪で酢甕にしかならないという意)、伊勢平氏とぞ申しける。
其上忠盛目のすがまれたりければ、か様にはやされけり。(後略)
(出典 日本古典文学全集29 平家物語1)



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