平康頼の塔

平康頼の塔は、京都市北区大徳寺にある。
「平康頼之塔」と記した石塔の後方に、花崗岩製の地藏宝塔(像高97cm)が建立されている。
前面は、地藏立像(地蔵菩薩)で、右手は下げた与願印で、左手は曲げて宝珠を載せている。
裏面は、仏塔(宝塔)になっており、塔身の扉内に、多宝、釈迦が並んで刻まれている。

平康頼は、平安末期から鎌倉初期の武士で、歌人。信濃権守(ごんのかみ) 中原頼季の子。
承安4年(1174)北面の武士から検非違使尉(けびいしのじょう)となる。このため平判官(へいほうがん)康頼ともいわれる。
今様の名手で後白河院の寵臣として活躍したが、治承元年(1177)鹿ケ谷事件に連座して俊寛僧都(しゅんかんそうず)、藤原成経(なりつね)とともに薩摩国鬼界ケ島へ流された。
途中周防国(山口県)で出家して性照と称した。鬼界ケ島における熊野権現の勧請、千本の卒塔婆流しの話はよく知られている。
治承2年(1178)赦免されて翌年都に帰り、東山雙林寺に籠居して説話集「宝物集」を著した。

平家物語巻第二 卒塔婆流には、康頼入道の次の二首の歌が記されている。
薩摩潟 沖の小島に 我ありと 親には告げよ 八重の潮風
思ひやれ しばしと思ふ 旅だにも なほふるさとは 恋しきものを



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