高橋世南句碑

高橋世南句碑は、和歌山県高野山奥の院24町石西南にある。
堀尾家供養塔 松江開府の祖 堀尾吉晴墓所及び海軍整備課予備練習生記念之碑と参道の間に位置している。
天保8年(1837)、高橋世南(せいなん)の七回忌に建立されたもので、
山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」によると、次のように刻されている。
       世南
 はやあとになる
    たゝ今そ
      花盛
    素芯書

揮毫した「素芯」は、桜井梅室の名で知られる俳人で、天保の三大家に数えられている。
石碑裏面には、「世南句碑」と題して高橋世南に関する次の文が刻されている。

   世南句碑
世南姓高橋名茂正世仕信上田侯父茂辰爲京
邸監没茂正辞任居大坂號六轡為俳諧者流蓋其
平日所好後改世南亦號幻華頗鮮續書幷翰墨有
超越儕輩者然性質訥不能阿色唱和故行脚蓬累
自苦不遑定居年四十三天保辛卯三月十一日病
死京之寓庵葬出水長園寺先人之墓側其平生從
遊者傷其早死無後惜其聲之未顯之為撰其所嘗
吟詠句上木別撰一句乞其師素芯書之刻石又嘱
海客録之碑陰樹之高埜之山茲丁酉 春三月十
一日即爲其七回忌展因以表追悼之志爾其從遊
者並見其句帖茲不録

矢羽勝幸氏は、次のように書き下している。
世南、姓は高橋、名は茂正、世々信の上田侯に仕ふ。父、茂辰、京邸監と為りて没す。
茂正、任を辞し、大坂に居り、六轡と号して俳諧者流たり。蓋し其の平日好む所ならん。
後、世南と改め、亦、幻華と号す。頗る読書幷びに翰墨を解し、儕輩に超越する者有り。
然るに性質訥邑に阿ぬる能はず。唱和は故(もと)より行脚、蓬累、自ら居を定むるに遑あらざるを苦しむ。
年四十三、天保辛卯三月十一日、京の寓庵に病死す。出水の長園寺(長遠寺)の先人の墓の側に葬る。
其の平生の未だ顯れざるを惜み、乃ち、其の嘗て吟詠する所の句を撰び上木し、
別に一句を撰び、其の師素芯に乞ひ之を書せしめ、石に刻し、又、海客に嘱し、之を碑陰に録し、之を高野の山に樹つ。
茲に丁酉春三月十一日、即ち其の七回忌辰たり。因って以て追悼の意を表するのみ。
其の従遊の者、並びに其の句帖に見ゆる者、茲に録せず。
 (矢羽勝幸氏「漂泊の俳人高橋世南」参照)



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