高倉神社 以仁王御墓は、京都府木津川市山城町綺田(かばた)神ノ木にある。
高倉神社の祭神は、後白河法皇の第二皇子以仁王(もちひとおう)で、隣接して宮内庁が管理する以仁王御墓がある。
「平家物語」によると、以仁王は、治承4年(1180)源頼政のすすめにより、平清盛とその一族の追討を命じる令旨を諸国の源氏勢力宛てに出していた。
このことが平家方に知れたため、以仁王は三条高倉第から逃れ、園城寺を経て南都の興福寺を頼ってこの地に至り、光明山寺の鳥居の前において流れ矢に当たって落命したという。
後に、この地に以仁王の御霊を祀ったのが、神社の起こりと伝えられている。
平家物語巻四「宮御最後」に、次のように記されている。
案のごとく宮は参騎ばかりで落ちさせ給ひけるを、光明山の鳥居まえにて追ッつきたてまつり
雨の降るやうに射まひらせければ、いづれが矢とはおぼえねど宮の左御そば腹に矢一すぢ立ちければ、
御馬より落させ給て、御頸とられさせ給ひけれ。
高倉神社西方の集落が小字鳥居であることから、この付近に光明山寺に関連した鳥居があったと考えられている。
光明山寺は、長徳4年(998)に没した真言宗広沢流の僧 寛朝(かんちょう)の開基といわれ、その後、以仁王が没した頃には、南都東大寺の別所として栄え、綺田一帯に広大な寺地を有していた。
現在は、山中の谷間に、かつて堂舎、僧房120を数えたという伽藍の遺構が名残を忍ばせている。
高倉神社の南約100mの水田中には、以仁王に付き随った三井寺の堂衆 筒井浄妙の墓がある。
祇園祭の山鉾「浄妙山」では、宇治川の合戦での奮戦ぶりが描かれ、橋げたを渡り一番乗りしようとする筒井浄妙の姿があらわされている。
JR奈良線玉水駅下車徒歩20分。