讃岐高松藩 高松松平家供養塔

讃岐高松藩 高松松平家供養塔は、和歌山県高野山奥の院34町石南西にある。
史跡金剛峯寺境内(奥院地区)大名墓総合調査報告書によると、中型五輪塔1基、小型五輪塔2基がある。

東端にある松平頼重供養塔(総高318cm)の地輪には、次のように刻されている。
(水原堯榮氏「高野山金石図説」、史跡金剛峯寺境内(奥院地区)大名墓総合調査報告書Ⅱ参照)
(正面) (梵字)龍雲院殿雄蓮社
          大誉孤峯源英大居士
(裏面) 頼常造立
      宿坊宝蔵院

天正15年(1587)豊臣秀吉が四国の抑え役として讃岐に生駒親正を送り込み、その後、寛永14年(1637)生駒騒動で生駒高俊が秋田の矢島藩に減封された。
讃岐は東西に分割され、寛永19年(1642)東の高松に水戸藩主 徳川頼房の長子 松平頼重が入り、高松藩が成立した。

松平頼重(1622-1695)は、高松藩松平家初代藩主である。
徳川家康の11男で水戸藩主 徳川頼房の嫡男であったが、頼房は嫡男が生まれない兄たちの尾張徳川家、紀州徳川家に遠慮して、頼重を庶子として幕府に届けた。
そのため、水戸藩の2代目には徳川光圀(水戸黄門)が就任することになった。
従弟の三代将軍 徳川家光はそれを憐れんで、頼重を高松藩主とした。
頼重は、干害に備えて溜池を多数つくり、保多織(ぼたおり)を創始するなどの善政を施した。
朱子学に傾倒し年長者を重んじる徳川光圀は、頼重の子の綱條(つなえだ)を三代目の水戸藩主に迎え、頼重の次の高松藩主には、光圀の子の頼常を送った。
当地の供養塔は、光圀の嫡男 高松藩二代藩主 松平頼常が建立したものである。
松平頼重の墓所は、高松市の仏生山法然寺にある。



TOP PAGE  観光カレンダー
TOP PAGE  观光最佳时期(旅游日历)