田辺城跡は、京都府舞鶴市南田辺にある史跡である。
天正8年(1580)に丹後守護一色氏を滅ぼした後、織田信長から丹後国を与えられた細川藤孝(幽斎)、忠興父子は、宮津城築城に着手すると同時に、藤孝の隠居城として田辺城の築城に着手したといわれる。
東西を伊佐津(いさづ)川と高野(たかの)川が流れ、城型が南北に長く平地にくっきりと城郭が浮かぶ格好で、東の白鳥(しらとり)峠からこれを眺めるとあたかも鶴が舞っている姿に似ていたので別名 舞鶴城ともいわれた。
細川氏時代を描いたといわれる田辺御城図によると、天守台、本丸を中心に二の丸、三の丸があり、城郭の北に舞鶴湾、南に沼地、東西に川が流れる天然の要害地であった。
その後、京極氏、牧野氏と城主が変わるごとに修築が行われ、牧野氏が十代続いて明治維新を迎えている。廃藩後、城郭地の大部分は市街地となり、本丸及び二の丸の藩主邸の庭園(心種園)は舞鶴公園となった。
心種園碑(古今伝授の松)
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの前には、細川幽斎が小野木重勝以下近隣の諸大名約1万5千の兵に包囲されながら、五百余りの兵で50日余り籠城した。
幽斎は、古今和歌集の秘事口伝伝承者(古今伝授)であったため、幽斎が籠城で討死すると歌道の奥義が廃絶することを憂慮した後陽成天皇が勅使を送り開城を勧めた。
しかし、幽斎は、武人の本意ではないと開城要請を謝絶し、智仁(としひと)親王に古今伝授の秘伝書と「古(いにし)へも今もかはらぬ世の中に心の種を残す言(こと)の葉」の和歌一首を託した。
この秘伝書を伝えたといわれる場所に、松の木と心種園碑が建てられている。
9月に入り、朝廷は包囲する西軍に勅使をつかわして両軍に和議を命じて、関ヶ原の戦いの3日目に田辺城は開城した。
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