戸谷新右衛門の墓地 

戸谷新右衛門の墓地は、和歌山県橋本市南馬場にある和歌山県の指定史跡である。
戸谷新右衛門は、貞享3年(1686年)高野山領の南馬場に生まれ、その性格は正義剛直の人であったと伝えられる。
当時、高野山領の年貢は、寛文9年(1669年)に幕府が制定した「京桝」を使わず、大きな「讃岐枡」を使用し、さらに付加税(年貢米1石について2升の差口米(さしぐまい))も加わって、領内農民は窮乏していた。
これを見かねた興山寺領清水組庄屋の新右衛門は、享保5年(1720年)江戸の寺社奉行に直訴し、その結果訴えが聞き入れられ、不正枡の破棄と付加税の廃止が実現した。
越訴(おつそ)の罪で3年間入牢した後、赦免されて故郷に戻ったが、興山寺の怒りを買い、高野山の蛇柳で石籠詰(いしごづめ)の刑に処せられて、36年の生涯を閉じた。
積まれている墓石は、新右衛門が直訴に出かける前、密かに造って竹藪の中に隠してあったものといわれている。
大菩薩峠の作者として知られる中里介山は、小説「高野の義人」で戸谷新右衛門とその子新九郎の物語を描いている。
戸谷新右衛門伝承は、明治時代に掘り起こされた義民伝承の一つで、昭和34年には高野山を背に大きな石碑が建てられ、顕彰されている。
南馬場出身で学文路中学校長などを歴任した玉置力氏は、「戸谷新右衛門考」(昭和59年刊)において、各種資料を用いて、戸谷新右衛門について詳細な検証を行っている。

南海高野線紀伊清水駅下車、徒歩20分。



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