津城跡は、三重県津市丸之内にある。
津城は、当初織田信長の弟 織田信包(のぶかね)(1543-1614)が、伊勢上野城主であったとき、安濃津の地に元亀2年(1571)から安濃津城として築城を開始し、天正8年(1580)に、五層の天守を建てて完成した。
その間には、伊勢上野城で信包の世話になっていた信長の妹 お市の方と浅井三姉妹(茶々・初・江)も信包とともに安濃津城に移り、本能寺の変が起こった天正10年(1582)まで、安濃津城で暮らしていたと伝えられる。
一方、近年の研究によると、お市の方と三姉妹は、信長の叔父の織田信次に預けられ尾張国守山城で過ごしたとされる。(宮本義己氏「誰も知らなった江」 『渓心院文』参照)
その後、信包は近江国に転封となり、代って文禄4年(1595)に富田氏父子が安濃津城に入城し、のちに富田信高が城主となった。
富田氏は豊臣秀吉に仕えていたが、関ヶ原の戦いの前に徳川方(東軍)についたため、毛利秀元を総大将とする西軍に攻められ、五層の天守閣も砲撃で焼失して、富田信高は城を明け渡して、剃髪して津の専修寺に籠り高野山に入った。
関が原の合戦で東軍が勝利して、富田信高は再度城主となったが、慶長13年(1608)に徳川家康の命で、四国伊予今治から移った藤堂高虎が城主となった。
現在の津城跡は、信包が築城した城郭を藤堂高虎が慶長16年(1611)に大改修したもので、明治維新後に建物は取り壊され、石垣と堀の一部が残されている。
本丸跡と西ノ丸跡は、お城公園として整備され、津城跡として平成17年(2005)に三重県の指定史跡となっている。また平成29年(2017)に続日本百名城に指定されている。
西の丸跡は日本庭園となり、藩校 有造館の入徳門(赤門)が移築されている。昭和33年(1958)には、戦後復興のシンボルとして、鉄筋コンクリート造りの「津城本丸模擬櫓」が建設された。
本丸跡には、津藩祖 藤堂高虎公像がある。
近鉄名古屋線津新町駅から徒歩15分。
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