羽後秋田佐竹家供養塔

羽後秋田佐竹家供養塔は、和歌山県高野山奥の院20町石西北にある。

佐竹家は、常陸北部に勢力を築いた清和源氏、新羅三郎義光を祖とし、その孫にあたる昌義の時代に久慈郡佐竹郷・大田郷周辺を本拠としたことからこの名を名乗った。
北関東に古くから地盤を持つ一族で、南北朝の合戦において活躍したことで大きく勢力を伸ばした。
その後、混乱の時代を経て、豊臣政権では石田三成と関係が深く厚遇されたが、関ヶ原の戦いで、当主の佐竹義宣が、東軍西軍いずれにも与しなかったこともあり、慶長7年(1602)出羽秋田に減移封された。
江戸時代は、久保田城を藩庁として、20万5800石を領した。出羽国久保田藩で、「秋田」は、明治に入って改名されたものである。

当地の佐竹家墓所は、佐竹義重霊屋の南にあり、大型五輪塔四基と、中型五輪塔二基が建立されている。
石鳥居の扁額には、鑑照院、浄光院、徳雲院と刻されており、正面三基の五輪塔である。
大型五輪塔四基は、次の藩主等の供養塔である。

藩主名  没年  法名  備考 
 初代    佐竹義宣 寛永10年(1633)  浄光院殿傑堂天英  佐竹義重の長男 
 二代    佐竹義隆 寛文12年(1672)  鑑照院  岩城貞隆(佐竹義重の三男)の長男、義宣の養子 
 三代    佐竹義処(よしずみ) 元禄16年(1703)  徳雲院  佐竹義隆の次男 
 三代義処嗣子佐竹義苗(よしみつ) 元禄12年(1699)  乾徳院  佐竹義処の長男 29歳で死去 




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