大和三山 畝傍山は、奈良県橿原市にある。
大和三山は、奈良盆地の南部に位置する 香具山(かぐやま)(152.4m)、畝傍山(うねびやま)(199.2m)、耳成山(みみなしやま)(139.7m)の三つの小高い山を総称したものである。
香具山は桜井市の多武峰(とうのみね)から北西に延びた尾根が浸食により切り離され小丘陵として残存したもので、畝傍山と耳成山は盆地から聳えるいわゆる死火山である。
三つの山は古来、有力氏族の祖神など、この地方に住み着いた神々が鎮まる地として神聖視され、その山中や麓に天香山神社、畝火山口坐神社、耳成山口神社などが祀られてきた。
また皇宮造営の好適地ともされ、特に藤原宮の造営に当たっては、東、西、北の三方にそれぞれ香具山、畝傍山、耳成山が位置する立地が、宮都を営む上での重要な条件にされたと考えられている。
畝傍山は、瀬戸内火山帯に属し大和三山の中では最高峰である。古事記には畝火山、日本書紀には畝傍山と書かれており、お峰山(おむねやま)、慈明寺山(じみょうじやま)ともいう。
山麓は片麻岩、中腹以上は黒雲母(くろうんも)安山岩からなり、火山の一部が鐘状をなしている。
山麓周辺には橿原神宮をはじめ、記紀に記される神武(じんむ)、綏靖(すいぜい)、安寧(あんねい)、懿徳(いとく)の四天皇陵があり史跡に富んでいる。
万葉集にある中大兄皇子の長歌では、香久(具)山は畝傍(火)山を想い、耳成山と恋争いをしたと詠われるなど、多くの古歌に詠まれている。
大和三山歌 いにしえ恋物語(飛鳥観光パンフレットから)
*一人の女性をめぐる兄弟の争い
万葉集に幾首もの歌をのこした額田王(ぬかたのおおきみ)が恋したのは、大海人皇子(おおあまのおうじ)。
645年に起こったクーデター 大化の改新の中心人物で当時の政局のリーダー、中大兄皇子の弟です。
額田王は大海人皇子の妻となり十市皇女(とおちのひめみこ)をもうけますが、中大兄皇子が即位して天智天皇になると、天皇は弟から額田王を奪ってしまいます。
香具山は 畝傍ををしと 耳成と
相あらそひき 神代より
かくにあるらし 古昔(いにしえ)も
つまをあらそふらしき
(香具山は畝傍山を愛しく思い、耳成山と争った。神代からこういうことはあったようだ。
だから今の世の人も愛する人を巡って争うのだろう)
万葉集にある三山の妻争いは、この三角関係を詠ったものとされます。
*歌で交わす恋のさやあて?
688年の夏、宮廷の人々はこぞって蒲生野(がもうの)に鹿狩りに出かけました。
このときの宴の席で、天智天皇を前に額田王と大海人皇子が交わした有名な歌が残っています。
<額田王>
あかねさす 紫野行き 標野(しめの)行き
野守は見ずや 君が袖ふる
(あかね色をおびた紫草が生える野。その標を張った御料地を行き来しながら、あなたはそんなに袖を振る。
野の番人に見られてしまいますよ)
<大海人皇子>
紫の にほえる妹(いも)を 憎くあらば
人妻ゆゑに 我恋ひめやも
(紫草のように美しいあなたを好きでなかったら、人妻と知りながら恋をするだろうか)
座興で詠まれた歌とはいえ、こうした恋のさや当てが後の壬申の乱につながったという見方もあります。
なにしろ、一方は天皇の後継者となる皇太子にたてられた大海人皇子。
対して、息子の大友皇子(おおとものみこ)に皇位を継がせたいと願う天智天皇。
二人の間の溝は一段と深まっていきます。
*愛する者たちが敵味方に
天智天皇の死後、大友皇子と大海人皇子との対立は決定的なものになり、672年、古代史上最大の内乱 壬申の乱に突入します。
額田王にとっては、大海人皇子との間に生まれた十市皇女が大友皇子に嫁いでいたこともあり、国を二つに分ける内乱は、愛する者たちをも敵味方に分けてしまう悲しい争いとなってしまいました。
政変も恋愛沙汰も、人の営みを数々見つめてきた大和三山は、緑をたたえ静かにたたずんでいます。
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