八木城跡 内藤ジョアン顕彰碑

八木城跡は、京都府南丹市八木町にある。
八木城は、南丹市八木町の城山(標高330m)に築かれていた山城である。
確認されている遺構の規模(東西約700m×南北約900m)からは、戦国時代丹波でも有数の山城であったことがうかがえる。
氷上の黒井城(兵庫県丹波市)、多紀の八上城(兵庫県篠山市)と並ぶ丹波三大山城の一つと伝えられている。
八木城の築城年代は明らかではないが、内藤氏が戦功により足利尊氏から八木の地を賜り、築城したといわれている。
室町時代に細川氏が丹波を領国として守護するようになると、永享3年(1431)頃、八木城の内藤氏が丹波守護代として任命され、八木城を拠点として丹波地方での勢力を拡大していった。
天正元年(1573)足利幕府が消滅すると、織田信長の命で、明智光秀の丹波攻略が開始され、天正3年(1575)八木城は落城した。
その後、明智方により城の改修が行われたが、本能寺の変後、廃城となった。

キリシタン武将 内藤ジョアン(如安)顕彰碑は、八木城跡城山登山口にある。
ジョアンの父、内藤宗勝は、もとは松永長頼(甚介、蓬雲軒)といい、三好長慶の有力家臣の松永久秀の弟で、一時は八木城を拠点として丹波に君臨したが、荻野直正との戦いで、天田郡和城付近で討死した。
跡を継いだ内藤貞弘は、都の南蛮寺で宣教師ルイスフロイスから洗礼を受け、ジョアンと呼ばれた。
織田信長、足利義昭に従っていたが、母の死を契機にジョアンは八木城を出て、盟友小西行長に合流し、朝鮮出兵にも参加した。文禄の役では、小西行長の客将として講和使節の大任を命じられ、明国北京に赴き休戦交渉を行った。
関ヶ原の合戦後、小西行長が改易されると、加藤清正に仕え、さらに同じキリシタン武将だった高山右近の尽力で前田利家の客将となった。
慶長19年(1614)徳川幕府のキリシタン禁教令により、高山右近らとともに、マニラに流刑となり、寛永3年(1626)73歳で亡くなった。



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