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特別史跡 山田寺跡は、奈良県桜井市にある。
山田寺は、右大臣 蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだのいしかわまろ)が発願した、飛鳥時代を代表する寺院の一つである。
記録によれば、641年に着工し、2年後には金堂が完成したものの、649年に石川麻呂が政争で自殺したため造営は中断した。
その後、本格的に造営が再開され、676年に塔が完成、685年には、現在、興福寺に仏頭が残る講堂の本尊 丈六仏の開眼供養が行われた。
1976年~1996年の発掘調査では、東西118m、南北185mの寺域に、南門、中門、塔、金堂、講堂が南北一直線に並び、回廊が塔と金堂を囲む伽藍配置であることが明らかとなった。
また、東面回廊が倒壊したままの状態で見つかるなど、飛鳥時代の建築様式を知る上で、貴重な発見が相次いだ。
蘇我氏の有力な分家であった蘇我倉氏は、舒明朝の成立前夜に滅んだ同族の境部氏に代わり勢力を伸ばし、石川麻呂は蘇我本家に迫るほどの威勢を築いていたといわれ、山田寺はそれを象徴する建造物であった。
「山田」の地名は、石川麻呂の河内国における本拠である石川地方の山田の地名を移したものと見られる。
石川麻呂はその後、孝徳天皇と対立を深め、讒言によって上記のとおり失脚した。
寺院造営の再開については、石川麻呂の外孫にあたる持統天皇とその夫 天武天皇の経済的支援があったと考えられている。
(遠山美都男氏著「蘇我氏と飛鳥」参照)
