山口毛利家供養塔は、和歌山県高野山奥の院にある。
奥の院19町石と20町石の間の参道を北側に約30m登った東側にあり、昭和52年(1977)7月14日に国史跡に指定されている。
戦国時代、山口毛利家は、もともと安芸国吉田(のち広島)を本拠とする大名で、毛利元就の時代には中国地方8か国を領有していた。
しかし、慶長5年(1600)毛利輝元は関ヶ原の戦いに敗れ、周防、長門の2国に減封された。
萩に城を築いた毛利輝元は、領内を分けて、長府藩、徳山藩、清末藩、岩国領の3藩1領とし、これらの支藩に対して、長州藩は本藩、宗藩と呼ばれた。
毛利輝元の隠居後、長州藩初代藩主に秀就(ひでなり)が就き、2代綱広、3代吉就、4代吉広、5代吉元、6代宗広、7代重就、
8代治親(はるちか)、9代斉房(なりふさ)、10代斉煕(なりひろ)、11代斉元、12代斉広(なりとう)、13代敬親(たかちか)と続いた。
当地の墓所は、雛壇を造成したうえで、玉垣前に鳥居と石燈籠が置かれ、内部には、大型五輪塔11基と小型五輪塔3基が整然と並べられている。
正面には毛利輝元(天樹院殿)の供養塔が建てられており、第4代長州藩主 毛利吉広(青雲院殿)夫妻以降の長州藩、長府藩主などの五輪塔がある。
向かって右側から、主な五輪塔は次のとおり。
第8代 毛利治親(容徳院殿)夫妻
長州藩第7代毛利重就の養嫡子 毛利重廣(隆徳院殿)(初名 有馬純峯)
第6代 毛利宗広(観光院殿)夫妻
第5代 毛利吉元(泰桓院殿)夫妻
第5代 毛利吉元嫡男 毛利宗元(祐厳院殿)
第4代 毛利吉広(青雲院殿)夫妻
(正面) 毛利輝元(天樹院殿)
第9代 毛利斉房(清恭院殿)夫妻
第11代 毛利斉元(邦憲院殿)夫妻
第10代 毛利斉煕(清徳院殿)
長府藩第8代、長州藩第7代毛利重就(英霊院殿)
→ 長州毛利家供養塔
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