大和三山回遊ウォーク


近鉄 大和三山回遊コース地図

橿原市 名勝大和三山コース地図(当サイトは逆回りで案内しています。)


久米寺

久米寺は、奈良県橿原市久米町にある真言宗御室派の別格本山である。
霊禅山(れいぜんざん)東塔院と号する。
寺伝によると、聖徳太子の弟が眼病を患ったとき、ここで薬師如来に祈ったところ眼病が平癒し、自ら来目皇子(くめのみこ)と称して寺を創ったという。
また扶桑略記、今昔物語集では、久米仙人の創建と伝えている。
吉野龍門寺で修行して飛行術を得た久米仙人は、吉野川で洗濯している女性のふくらはぎに見とれて空から墜落し、神通力を失った。
その後、高市郡に都を造営する際、神通力を取り戻し、東大寺建立の際に諸国の材木を飛行させて運び、その功績で免田30町を賜り、久米寺を創建したという。
弘法大師空海が久米寺の東塔で大日経を感得し、それが唐に渡る契機になったといわれている。
空海は帰国後ここで大日経の講讃(こうさん)をしたので、真言宗発祥の聖地とされる。
境内には、大塔礎石、多宝塔、本堂、大師堂、観音堂、七重石塔、久米仙人像、虫塚、日本民謡愛好之碑などがある。
多宝塔は、江戸時代前期に京都仁和寺から移築されたもので、国の重要文化財となっている。
本堂には、丈六の本尊薬師如来坐像、日光、月光菩薩像、十二神将像、久米仙人像などが安置されている。
5月3日には、二十五菩薩練供養大会式(ねりくようだいえしき)が行われる。
檀信徒が菩薩面を着けて本堂に赴き、来迎の模様を再現するもので、「久米レンゾ」と呼ばれる。
近鉄南大阪線橿原神宮駅下車、徒歩5分。門前に参拝者用の駐車場がある。




橿原神宮

橿原神宮は、奈良県橿原市久米町にある。
祭神は、第一代天皇 神武天皇と、媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)皇后である。
神武天皇は、古くは神日本磐余彦火火出見天皇(かむやまといわれひこほほでみのすめらみこと)と呼ばれた。
天照大神(あまてらすおおかみ)は、葦原中つ国(地上界)を自身の子孫が永遠に治めるべき国であり、高天原と同じく平和で豊かな土地にするため、孫である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を中つ国の日向高千穂に降らせた。
神武天皇は、この瓊瓊杵尊から数えて四代目に当たり、兄宮達と高千穂宮で政治を行っていたが、その後東遷の旅に出て大和に入り、三輪山に坐(いま)す大物主神(おおものぬしのかみ)の娘 媛蹈鞴五十鈴媛命を妃として当地で即位したと伝えられる。
明治21年(1888)畝傍山南東の宮跡の考証がなされ、明治22年5月に民間有志から橿原宮跡に神社創建の請願が政府に提出され許可された。
明治天皇は、旧京都御所の内侍所(ないしどころ)を本殿、神嘉殿(しんかでん)を拝殿として献進し、明治23年(1890)4月2日に橿原神宮が創建され、官幣大社とされた。
本殿と文華殿(柳本藩旧織田家形は、国の重要文化財に指定されている。

約53万㎡に及ぶ宮域は、昭和15年(1940)の皇紀2600年奉祝記念事業として国民の勤労奉仕で拡張整備されたもので、約7万6千本の樹木が植栽され、そのうち2万2千本余りは、全国から寄せられた献木である。
例祭(紀元祭)は、2月11日の建国記念日に行われる。神武天皇が崩御した4月3日に行われる春季大祭(神武天皇祭)は、一般に「神武さん」と呼ばれて各種の神賑(かんにぎわい)行事が行われる。

外拝殿北東には皇后陛下御歌碑がある。
平成28年4月3日の神武天皇二千六百年祭にあたり、当時の天皇皇后陛下が参拝した際、美智子皇后が詠んだ次の歌が刻されている。
「遠つ世の 風ひそかにも 聴くごとく
樫の葉そよぐ 参道を行く」
森林遊苑には、民俗学者、国語学者、歌人 折口信夫(釈迢空(しゃくちょうくう))の歌碑があり、次のように刻されている。
「畝傍山 かしの尾のへに 居る鳥の
鳴きすむ聞けば 遠代なるらし」

近鉄橿原神宮前駅下車徒歩10分。参拝者用の有料駐車場がある。





東大谷日女命神社

東大谷日女命神社(ひがし(やまと)おおたにひめみことじんじゃ)は、奈良県橿原市畝傍町にある。
畝傍山東麓に鎮座する。祭神は姫蹈鞴五十鈴姫(ひめたたらいすずひめ)命である。
当社の創建は不明であるが徳川時代においては、氏神 熊野神社として明治11年頃まで熊野権現を祀っていた。
その頃の祭神は伊弉諾尊である。
延喜式神名帳の東大谷日女命神社は、「大和志」以来、現在の桜井市山田にある東大谷日女命神社とされている。
しかし、大谷という地名が畝傍山西方にあることから、同社を畝傍地方に求める説が起こり、
明治20年頃から 熊野権現の社名を「式内社 東大谷日女命神社」に、祭神を神功皇后に変更し、
明治35年(1902)頃には、社名を「東大谷日女命神社」に、祭神を姫蹈鞴五十鈴姫命に変更した。

義民顕彰碑

明和5年(1768)の大凶作の際、大谷村の庄屋半兵衛、畝傍村の惣治郎を首謀者とする強訴があり、池尻の陣屋に押し寄せた農民たちは、役人から年貢不納の文書(免許状)を勝ち取った。
やがて江戸から送り込まれた役人たちから厳しい取り調べが行われ、首謀者であった畝傍村の惣治郎は死刑、強訴した村方に対しては、村高百石につき四石の科料(罰金)が命じられた。
村人たちは惣治郎の功績を称えて、東大谷日女命神社の拝殿前に顕彰碑を建立したという。
現在の鳥居横の義民顕彰碑は、明治43年(1910)に建立されたものである。






大和三山 畝傍山

大和三山 畝傍山は、奈良県橿原市にある。
大和三山は、奈良盆地の南部に位置する 香具山(かぐやま)(152.4m)、畝傍山(うねびやま)(199.2m)、耳成山(みみなしやま)(139.7m)の三つの小高い山を総称したものである。
香具山は桜井市の多武峰(とうのみね)から北西に延びた尾根が浸食により切り離され小丘陵として残存したもので、畝傍山と耳成山は盆地から聳えるいわゆる死火山である。
三つの山は古来、有力氏族の祖神など、この地方に住み着いた神々が鎮まる地として神聖視され、その山中や麓に天香山神社、畝火山口坐神社、耳成山口神社などが祀られてきた。
また皇宮造営の好適地ともされ、特に藤原宮の造営に当たっては、東、西、北の三方にそれぞれ香具山、畝傍山、耳成山が位置する立地が、宮都を営む上での重要な条件にされたと考えられている。

畝傍山は、瀬戸内火山帯に属し大和三山の中では最高峰である。古事記には畝火山、日本書紀には畝傍山と書かれており、お峰山(おむねやま)、慈明寺山(じみょうじやま)ともいう。
山麓は片麻岩、中腹以上は黒雲母(くろうんも)安山岩からなり、火山の一部が鐘状をなしている。
山麓周辺には橿原神宮をはじめ、記紀に記される神武(じんむ)、綏靖(すいぜい)、安寧(あんねい)、懿徳(いとく)の四天皇陵があり史跡に富んでいる。
万葉集にある中大兄皇子の長歌では、香久(具)山は畝傍(火)山を想い、耳成山と恋争いをしたと詠われるなど、多くの古歌に詠まれている。




大和三山歌 いにしえ恋物語(飛鳥観光パンフレットから)

*一人の女性をめぐる兄弟の争い
万葉集に幾首もの歌をのこした額田王(ぬかたのおおきみ)が恋したのは、大海人皇子(おおあまのおうじ)。
645年に起こったクーデター 大化の改新の中心人物で当時の政局のリーダー、中大兄皇子の弟です。
額田王は大海人皇子の妻となり十市皇女(とおちのひめみこ)をもうけますが、中大兄皇子が即位して天智天皇になると、天皇は弟から額田王を奪ってしまいます。

香具山は 畝傍ををしと 耳成と
相あらそひき 神代より
かくにあるらし 古昔(いにしえ)も
つまをあらそふらしき

(香具山は畝傍山を愛しく思い、耳成山と争った。神代からこういうことはあったようだ。
だから今の世の人も愛する人を巡って争うのだろう)

万葉集にある三山の妻争いは、この三角関係を詠ったものとされます。

*歌で交わす恋のさやあて?
688年の夏、宮廷の人々はこぞって蒲生野(がもうの)に鹿狩りに出かけました。
このときの宴の席で、天智天皇を前に額田王と大海人皇子が交わした有名な歌が残っています。

<額田王>
あかねさす 紫野行き 標野(しめの)行き
野守は見ずや 君が袖ふる
(あかね色をおびた紫草が生える野。その標を張った御料地を行き来しながら、あなたはそんなに袖を振る。
野の番人に見られてしまいますよ)

<大海人皇子>
紫の にほえる妹(いも)を 憎くあらば
人妻ゆゑに 我恋ひめやも
(紫草のように美しいあなたを好きでなかったら、人妻と知りながら恋をするだろうか)

座興で詠まれた歌とはいえ、こうした恋のさや当てが後の壬申の乱につながったという見方もあります。
なにしろ、一方は天皇の後継者となる皇太子にたてられた大海人皇子。
対して、息子の大友皇子(おおとものみこ)に皇位を継がせたいと願う天智天皇。
二人の間の溝は一段と深まっていきます。

*愛する者たちが敵味方に
天智天皇の死後、大友皇子と大海人皇子との対立は決定的なものになり、672年、古代史上最大の内乱 壬申の乱に突入します。
額田王にとっては、大海人皇子との間に生まれた十市皇女が大友皇子に嫁いでいたこともあり、国を二つに分ける内乱は、愛する者たちをも敵味方に分けてしまう悲しい争いとなってしまいました。

政変も恋愛沙汰も、人の営みを数々見つめてきた大和三山は、緑をたたえ静かにたたずんでいます。




神武天皇陵

神武天皇畝傍山東北陵は、奈良県橿原市にある。
神武天皇は古事記、日本書紀に伝えられ、初代の天皇とされる。
高天原から天津神(あまつかみ)の子として地上に降臨した瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の曽孫である。
神武という名は8世紀後半に贈られた中国風の諡号である。
古事記、日本書紀には、(1)若御毛沼(わかみけぬ)命、(2)神倭伊波礼毘古(かむやまといわれびこ)命、(3)始馭天下之天皇(はつくにしらししめずめらみこと)命などの名が記されている。
(1)は幼名、(2)は神聖な大和の国の由緒、(3)は初めて天下を治定したことを示す。
45歳の時、日向から瀬戸内海を東へ進み、難波に上陸して大和に向かおうとしたが、土地の豪族の軍に妨げられ、紀伊半島を迂回して熊野から大和に入って平定した。
辛酉の年(紀元前660年)の元旦、畝傍の橿原宮で初代の天皇の位についた。
そして媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)を皇后として、在位76年、127歳で没して畝傍山東北陵に葬られた。
神武天皇が崩御した4月3日には、橿原神宮で天皇の偉業を讃える神武天皇祭が行われる。
近鉄畝傍御陵前駅から徒歩5分。参拝者用の無料駐車場がある。





本薬師寺跡

本薬師寺跡は奈良県橿原市城殿町にある国の特別史跡である。
日本書紀によると、本薬師寺は、680年に天武天皇が皇后(持統天皇)の病気平癒を祈念して発願した寺である。
その後創建に着手されたが、完成を見ないうちに天皇が死去したため、持統天皇がその遺志を継ぎ、17年後の698年に伽藍がほぼ完成した。
当時は薬師寺として飛鳥大寺の一つに数えられたが、平城遷都に伴い、718年に寺も右京六条二坊に移された。
寺が移転した後も、平安時代中頃まで伽藍の存在が確認でき、その頃には、平城京の薬師寺に対して、本薬師寺と呼ばれるようになった。
現在は小堂とともに、金堂、東塔、西塔の基壇と礎石が残されている。
史跡周辺の休耕田1.4haでは、地元の農家などでつくるまちづくり団体「城殿町霜月会」がホテイアオイ約1万4千株を栽培している。
8月下旬から9月中旬にかけて、薄紫色のホテイアオイの花が一面見頃となる。
近鉄橿原線畝傍御陵前駅から徒歩10分。




紀寺跡

紀寺跡(きでらあと)は、奈良県明日香村にある奈良県指定史跡である。
紀寺跡は小山廃寺とも言われ、天香具山西麓の明日香村大字小山字キデラに所在することから遺跡名が紀寺跡とされた。
この地は、藤原京の左京八条二坊にあたる微高地である。
「続日本紀」天平宝字8年(764)7月12日条の紀寺の奴益人らの訴えの記事によって、庚午年籍(こうごねんじゃく)の造られた天智天皇9年(671)にすでに紀寺が存在し、奴婢がいたことがわかる。
紀寺は、古代の有力豪族である紀氏の氏寺であったとする説や、奈良市西紀寺町の璉城寺(れんじょうじ)が平城遷都によって飛鳥から移った紀寺の後身とする伝承などがある。

昭和48年(1973)から奈良国立文化財研究所と奈良県教育委員会とによって発掘調査が行われ、
金堂跡(東西18.5m、南北16.5m)、講堂跡(東西32m、南北19.9m)、中門跡(東西12m、南北8.2m)、回廊及び南門跡が確認され、7世紀後半の創建と考えられている。
伽藍配置は、南大門、中門、金堂、講堂が一直線に並び、回廊は中門から講堂にとりついて金堂を囲む形となっている。
文政2年(1829)卯花日記の記事で、現在は失われているが、明治10年(1877)頃までは、金堂の南東に塔心礎が残っていたと考えられることから、塔の存在も推定されている。金堂の南西では旗を立てる幢竿支柱(どうかんしちゅう)の柱跡が確認されている。
創建時の軒瓦は外縁に雷文(らいもん)を飾る複弁八弁蓮華文軒丸瓦(ふくべんはちべんれんげもんのきまるかわら)と三重弧文軒平瓦(さんじゅうこもんのきひらかわ)の組み合わせで、紀寺式と呼ばれている。
紀寺式と同じ文様の瓦は全国に分布している。
また、白鳳仏を彷彿とさせる優美な大型の独尊塼仏(粘土を凹型につめて成形し、乾燥させて窯で焼いた板状の仏像)も出土している。




天岩戸神社

天岩戸神社(あま(め)のいわとじんじゃ)は、奈良県橿原市南浦町荒字岩戸東にある。
天香久山南麓、南浦集落のほぼ中心に南面して鎮座し、天照大神が祀られている。
「古事記」「日本書紀」の神話にみられる天照大神の岩戸がくれした所と称し、今もなお巨石四個があって、大神の幽居した天石窟(岩穴)を御神体としている。
神殿は無く、拝所のみという古代人の原始的な祭祀形態を残している。
「延喜式」神名帳の十市(とおいち)郡「坂門(さかとの)神社 鍬靫」とする説もある。(五郡神社記・大和志料)
玉垣内には、真竹が自生するが、これを往古より七本竹と称して、毎年七本ずつ生え変わると伝えられている。
「西国三十三所名所図会」に次のとおり天岩戸神話にまつわる伝承が記されている。

右磐戸より半町ばかり南 田圃の中に笹一むら生茂り、
周に竹垣を結めぐらせり。これを天の湯笹といふ。
いにしへ神楽の御湯に此笹を用ひしとぞ。
其古例によりて伊勢の祭礼のせつ此笹を取に来ること
毎年かくる事なかりしが、後年此さゝの根をわけて彼国に
持かへりてかしこにうへしより、今は此事たへてなしと
土人ものがたれり。故あることなるべし。





大和三山 香久山

大和三山 香久山は、奈良県橿原市東部にある。
大和三山は、奈良盆地の南部に位置する 香具山(かぐやま)(152.4m)、畝傍山(うねびやま)(199.2m)、耳成山(みみなしやま)(139.7m)の三つの小高い山を総称したものである。
香具山は桜井市の多武峰(とうのみね)から北西に延びた尾根が浸食により切り離され小丘陵として残存したもので、畝傍山と耳成山は盆地から聳えるいわゆる死火山である。
三つの山は古来、有力氏族の祖神など、この地方に住み着いた神々が鎮まる地として神聖視され、その山中や麓に天香山神社、畝火山口坐神社、耳成山口神社などが祀られてきた。
また皇宮造営の好適地ともされ、特に藤原宮の造営に当たっては、東、西、北の三方にそれぞれ香具山、畝傍山、耳成山が位置する立地が、宮都を営む上での重要な条件にされたと考えられている。

香久山は、天の香久山(あめのかぐやま、あまのかぐやま)とも言われ、香具山、賀久山とも称される。
国土地理院の発行する地形図上では「天香久山」、平成17年に国の名勝に指定された際には「香具山」として登録されている。
「天」という言葉はこの山につけられた美称とも考えられるが、大和三山の中で最も神聖視された山で、
「伊予国風土記」逸文では、天から山が二つに分かれて堕ち、一つは伊予の国の「天山(あめやま)」となり、もう一つが大和国の「天加具山」になったとされている。
竜門山地の多武峰から北西に延びる尾根の末端に位置し、おもに堅い斑糲岩(はんれいがん)と花崗岩からなる残丘である。
藤原京の東方を鎮護する神山として、古代人の崇敬を集めた。
古代には国見の地であったと言われており、舒明天皇の国見の万葉歌碑が西の登山口にある。
また持統天皇や柿本人麻呂の歌がよく知られている。

     香具山を詠んだ万葉歌
大和には 群山(むらやま)あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 
国見をすれば 国原は 煙(けぶり)立つ立つ
海原(うなばら)は 鴎(かもめ)立つ立つ うまし国そ 蜻蛉島(あきつしま) 大和の国は
       舒明天皇 (巻一 ー 二)
春過ぎて夏来たるらし白たへの衣干したり天の香具山
       持統天皇 (巻一 ― 二八)
久方の天の香具山このゆふべ霞(かすみ)たなびく春立つらしも
       柿本人麻呂 (巻十 ー 一八一二)

JR桜井線香久山駅下車、徒歩20分。





國常立神社

國常立神社(くにとこたちじんじゃ)又は国常立神社(くにのとこたてじんじゃ)は、奈良県橿原市香久山山頂にある。
祭神は国常立尊で、境内社として高龗神(たかおかかみ)(竜王神)が祀れている。
俗に雨の竜王と称し、寛政10年(1798)の石灯篭に「天香山竜王」と刻されている。
向かって右側神殿の前に壷が埋められている、古来干天の時に雨乞いして壷の水をかえたが、
まだ降雨のない節はこの社の灯明の火で松明をつくり、村中を火振りして歩いたという。
末社に伊弉諾(いざなぎ)神社(祭神伊弉諾命)、伊弉冉(いざなみ)(伊弉冊)神社があり、天香久山の東山麓に鎮座する。
本居宣長の「菅笠日記」には、「この峯に竜王の社として、ちひさきほこらのある(後略)」と記されている。




月の誕生石

月の誕生石は奈良県橿原市香具山にある。
当地の案内板には、次のように記されている。

   月の誕生石
花崗岩で高さ一・五米 幅は六・五米、奥行は三・五米あり
月形黒色の斑点は月が使った産湯の跡で
小さな斑点は月の足跡と伝えられ 古代より信仰する人多し
   民話より
昔、ひとかかえ程の丸味あるとても綺麗な石でした。
次第に大きく成り人肌の様な温もりを残し、夕焼空を染め上げたように輝いて居りました。
又不思議お腹が突き出てとても苦しそうに見えました。
「お母さんの腹帯そっくりだ」「石が赤ちゃんを生むんだ!」
子供達は赤ちゃん誕生を心待ちにして居りました。
そんな或晩のこと、山の方で赤ちゃんの泣く声を聞いたような気がして、
「あっ! 石の赤ちゃんが生まれたんだ!」
子供達は外へ飛び出しますと香具山の頂から真ん丸いお月様が顔を出しました。
翌日山へ見に行くと石がしょんぼりと横たわり
胸の辺りに赤ちゃんの足跡が影のように残って居りました。
       橿原市 辻本達 書




天香山神社

天香山神社(あまのかぐやまじんじゃ)は、奈良県橿原市南浦町の天香具山北麓にある。
現地の案内には次のように記されている。
御祭神 櫛真神 元名 大麻等地神
櫛は奇(不思議)真は兆(占い)の古語にて、神武天皇記に天香山の社が見え創建古し。
末社 春日神社
    八幡神社
      天香山神社

延喜式神名帳 大和国十市郡「天香山坐櫛真命神社(大、月次、元名 大麻等乃知神)に比定されている。(大和志)
天香山坐櫛真命(あめのかぐやまにいますくしまのみこと)神社は、上記案内にも記されているように元の名を大麻等乃知(おおまとのち)神と称し、
天平2年(730)の大倭国正税帳(正倉院文書)によると久志麻知神は神田一町を有して、大同元年(806)には大和国に神封一戸を寄せられた。
山城国京中坐神でト庭神であった久慈真智命神社の本社にあたり、卜事をつかさどった神である。
境内には、次の万葉歌の歌碑がある。
ひさかたの 天の香具山このゆふべ 霞たなひく 春立つらしも 柿本朝臣人麻歌集
春すぎて 夏来にけらし しろたへの 衣ほしたり 天の香久山
また 古事記に記されている 波波迦(ははが)の木が植えられている。
古事記によると、天照大御神が天岩戸へ隠れた際、八百万の神々が合議し、天香山の波波迦にて天香山の雄鹿の肩骨を灼き太占(ふとまに)が行われた。
バラ科の木で上溝桜(うわずみざくら)ともいわれ初夏に白い花を咲かせる。
本殿手前の南東山側には、天照大神が十拳の劔(とつかのつるぎ)を振滌(振りすす)いだ聖なる泉と伝承される「天真名井(あめのまない)がある。





八釣山 地藏尊 興福寺

八釣山 地藏尊 興福寺は、奈良県橿原市下八釣町にある浄土宗の寺院である。
寺伝によると、物部守屋が仏法を嫌い、585年に飛鳥の橘寺の東金堂を焼いたとき、金堂安置の地蔵菩薩が火から逃れて天香久山の頂上にとどまった。
そこで聖徳太子は山麓に一寺を建立して地藏を祀り、興福寺と称して、延命経の八怖を除く意味で山号を八釣山(やつりやま)と名付けたという。
聖徳太子が夢のお告げで体顕しという御夢想の名灸があり、リュウマチや神経痛などに効くという。
近鉄大阪線耳成駅下車徒歩20分。





畝尾坐健土安神社

畝尾坐健土安神社(うねおにいますたけはにやすじんじゃ)は、奈良県橿原市下八釣(しもやつり)町にある。
天香久山北西の麓で、畝尾都多本(うねおのつたもと)神社北隣に鎮座する。
延喜式神名帳の十市郡に「畝尾坐健土安神社 大 月次新嘗」とあることから、当地の神社名石柱に式内大社と記されている。
祭神は、健土安比売命(たけはにやすひめのみこと)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)である。
健土安比売命は、古事記に記す波邇夜須毘売神(はにやすびめのかい)で伊邪那美命が火の神を生んだ時に屎(くそ)から生まれた土の神である。
日本書紀では神武天皇即位前紀己未年二月二〇日条に
「天皇、前年の秋九月を以て、潜に天香山の埴土を取りて、八十の平瓮を造りて、躬自ら斎戒して諸神を祭りたまふ。
遂に区宇を安定むること得たまふ。故、土を取りし処を号けて、埴安と曰ふ」
と記されていることから、
畝尾坐健土安神社は、埴安に鎮座した土霊とされる。
当社と天香久山との間に赤埴山(あかはにやま)という小丘があり、埴安伝承地の石碑が建てられている。
近鉄大阪線耳成駅から徒歩20分。




畝尾都多本神社

畝尾都多本神社(うねお(の)つたもとじんじゃ)は、奈良県橿原市木之本町にある。
啼沢の杜(なきさわのもり)に鎮座しており、本殿はなく、玉垣を囲んだ空井戸を御神体としている。
啼沢女命(なきさわめのみこと)を祭神とすることから、「哭沢(なきさわ)の神社(もり)」とも呼ばれている。
啼沢女命は、伊邪那美命(いざなみのみこと)が火の神を生み、亡くなったことを悲しんだ伊邪那岐命(いざなぎのみこと)の涙から生まれた水の女神である。

古事記 神代巻には、「泣沢女神(なきさわめのかみ)」について次のように記されている。
「故、伊邪那美神は、火の神を生みにしに因りて、遂に神避り坐しき。
(中略)故爾に伊邪那岐命詔りたまひしく、『愛しき我が那邇妹の命を、子の一つ木に易へつるかも』と謂りたまひて、
乃ち御枕方に匍匐ひ、御足方に匍匐ひて哭きし時、御涙に成れる神は、香山の畝尾の木の本に座して、泣沢女神と名づく」

この神の性格は水の神、井戸の神といわれ、伊邪那岐の涙から生まれたことから、「泣き女」に関連するとの指摘もある。
泣き女は、不幸のあった家に雇われ、喪主に代わって泣くのを職業とする女で、死者の魂を慰め、あるいは招魂して生者との間を取り次ぐ巫女的存在ともいわれる。

持統天皇10年(696)高市皇子の殯宮の時、檜隈(ひのくま)女王がこの神社を怨んで
「哭澤の神社(もり)に神酒(みわ)すゑ祷祈(いの)れども わご王は高日知らしぬ」(万葉集巻二 ー 二〇二)
(哭澤の社に神酒を供え、回復を祈ったけれども、その甲斐なく高市皇子はお亡くなりになった。)
と詠んでいることから、命乞いの神とする説もある。

鳥居北側には、「泣澤女の神の杜」と題した石碑(下記に碑文あり)と檜隈女王の歌碑が建立されている。
また、拝殿東側には、稲荷社、八幡社がある。
近鉄大阪線耳成駅下車、徒歩20分。


「泣澤女の神の杜」碑文

此の神社は古く古事記上巻約千二百五十年前
香山の畝尾の木本に坐す名は泣澤女神日本書
記畝丘樹下所居神延喜式神名帳畝尾都多本神
社?靫万葉集巻二或書の反歌(類聚歌林檜隈
女王の歌であり)
石長此売神は寿命を司り泣澤売神は命乞の神
なり 平田篤胤玉襷)
春雨秋雨等語源的に澤女は雨に通す水神なり
 (本居宣長古事記伝)




奈良文化財研究所 藤原宮跡資料室

奈良文化財研究所 都城発掘調査部 藤原宮跡資料室は、奈良県橿原市にある。
奈良文化財研究所が藤原宮跡で発掘調査し出土した瓦や土器、木簡など様々な貴重な資料を数多く展示し、
藤原京の造営から都での暮らしの様子、平城京へ遷都された後の藤原京の様子を説明している。




特別史跡 藤原宮跡

特別史跡 藤原宮跡は、奈良県橿原市にある。
藤原京は、持統天皇8年(694)から和銅3年(710)までの16年間、持統・文武・元明天皇の三代にわたる都であった。
日本初の本格的な都城で、日本の首都は皇居を意味する「宮」から国の都を意味する「京」となった。
藤原宮は、その中心部にあり、大きさはおよそ900m四方で、周りを大垣(高い塀)と濠で囲み、各面に3カ所ずつ門が設けられていた。
中には天皇が住む内裏、政治や儀式を行う大極殿と朝堂院そして役所の建物などが立ち並んでいた。
大極殿は、重要な政治や儀式の際に天皇の出御する建物である。赤く塗った柱を礎石の上に建て、屋根を瓦で葺くという日本では最初の中国風の宮殿建築であった。
建物の大きさは、正面9間(45m)、側面4間(20m)、基壇を含めた高さは25mを越え藤原京では最大である。
現在は基壇の跡だけが残り、「大宮上壇」と呼ばれている。
昭和10年(1935)に、日本古文化研究所がこの土壇を発掘調査し、藤原宮解明の端緒となった。
現在藤原宮跡と推定されているのは、現高殿町、縄手町、醍醐町、別所町にまたがる約100haの地域で、その中心部分の50haが国の特別史跡として指定され保存されている。
近鉄橿原線八木西口駅下車、徒歩30分。来訪者用の駐車場がある。




大和三山 耳成山

大和三山 耳成山は、奈良県橿原市にある。
平成17年に国の名勝に指定されている。
大和三山は、奈良盆地の南部に位置する 香具山(かぐやま)(152.4m)、畝傍山(うねびやま)(199.2m)、耳成山(みみなしやま)(139.7m)の三つの小高い山を総称したものである。
香具山は桜井市の多武峰(とうのみね)から北西に延びた尾根が浸食により切り離され小丘陵として残存したもので、畝傍山と耳成山は盆地から聳えるいわゆる死火山である。
三つの山は古来、有力氏族の祖神など、この地方に住み着いた神々が鎮まる地として神聖視され、その山中や麓に天香山神社、畝火山口坐神社、耳成山口神社などが祀られてきた。
また皇宮造営の好適地ともされ、特に藤原宮の造営に当たっては、東、西、北の三方にそれぞれ香具山、畝傍山、耳成山が位置する立地が、宮都を営む上での重要な条件にされたと考えられている。

耳成山は大和三山の中では最も低い山で、円錐状の整った秀麗な山容をしている。
畝傍山と同じく瀬戸内火山帯に属する死火山で、浸食や盆地の陥没と堆積によって現在の姿となった。
大和三山を詠んだ和歌は多いが、万葉集の中で耳成山が単独で詠まれる例はなく、他の二山とともに詠まれている。
耳成山を詠んだ万葉歌
香具山は 畝火ををしと 耳梨と
相あらそひき 神代より
かくにあるらし 古昔(いにしへ)も
然(しか)にあれこそ うつせみも 嬬(つま)をあらそふらしき
   中大兄皇子 (巻1-13)




耳成山口神社

耳成山口神社(みみなしやまぐちじんじゃ)は、奈良県橿原市にある。
大和三山 耳成山(139.7m)の東中腹に鎮座する。
祭神は、大山祇神(おおやまつみのかみ)、高皇産霊神(たかみむぶびのかみ)である。
延喜式神名帳十市(とおいち)郡の「耳成山口神社 大 月次新嘗」に比定される。
中世には天神社と称したため耳成山も天神山といわれた。



八木札の辻交流館

八木札の辻交流館 橿原市指定文化財 東の平田家(旧旅籠)は、奈良県橿原市北八木町にある。
横大路(伊勢街道)と下ツ道(中街道)が交わる八木札の辻にあった旅籠の建物を橿原市が改修して、無料で公開している。
建物は総2階建てで、ほとんどの柱が1階から2階までを1本の柱で支える「通し柱」である。
旅籠を営んでいた当初は、1階主屋部分に接客空間と主人の居室部分があり、2階を宿泊施設として利用していた。
1階の接客空間と主人の居室の間には、襖に加えて防犯のために板戸で仕切られていた。
18世紀後半から19世紀前半に建築されたと考えられており、平成22年に東の平田家(旧旅籠)として橿原市の指定文化財となった。
北側には、芭蕉句碑があり、笈の小文で八木に泊まった際に詠んだ「草臥(くたびれ)て宿かる比(ころ)や藤の花」の句が記されている。
近鉄大阪線大和八木駅下車、徒歩10分。






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