大和竜田藩 片桐家供養塔は、和歌山県高野山奥の院29町石北東にある。
29町石と30町石の間の参道沿いにある階段を東側に上がって約30m先に墓所があり、中型五輪塔4基が西向きに並んでいる。
向かって右端が、片桐且元供養塔である。
総高151cmの五輪塔の地輪には、次のように刻されている。
慶長二十乙卯秊
顕孝院殿
(梵字) 爲三英宗玄居士
成等正覚
五月二十八日
片桐且元(かつもと)(1556-1615)は、安土桃山時代の武将である。
近江国浅井氏配下の国人領主 片桐直貞の長男として生まれた。
父は浅井長政に仕え、天正元年小谷城の落城寸前まで城に籠っていたことが、落城前日付けの感状で確認されている。
片桐且元は、その後豊臣秀吉に仕え、天正11年(1583)賤ケ岳の戦いでは、七本槍の一人として活躍し、摂津国内に3千石を与えられた。
関ヶ原の合戦以降は、徳川家康の信任を得て、慶長6年(1601)には家康から加増を受けて大和竜田の城主(2万8千石)となり、同年小出秀政とともに豊臣宗家の家老となった。
以降豊臣徳川両家の関係修復に奔走したが、慶長19年(1614)方広寺鐘銘事件では、淀殿側から徳川家康との内通を疑われて、大坂城を退去して弟貞隆の居城であった茨木城に入った。
大坂冬の陣と夏の陣では、関東方として加わり、戦後加増されて4万石となったが、豊臣氏滅亡から20日後 慶長20年(1615)5月28日に病没した。
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