用明天皇陵(春日向山古墳)は、大阪府太子町にある。
日本書紀によると、用明天皇2年4月天皇が崩じ、7月に磐余池上陵(いわれのいけのへのみささぎ)に葬り、推古天皇元年(593)9月河内磯長原陵(こうちのしながのはらのみささぎ)に改葬された。古事記は、陵号を科長中陵としている。
初葬地は、所在不明であるが、用明天皇の皇居の池辺双槻宮(いけべなみつきのみや)と、地名「いけのへ」が一致するので、奈良県桜井市阿部付近と考えられている。 → 史跡探訪記
当地の用明天皇陵は、南面する二段築成の方墳で、東西64m、南北60m、高さ10m、幅約6.5mの空湟がめぐり、湟には高さ2mの土手を設けている。
天皇陵としては最初の、日本では最大規模の方墳である。
この用明陵古墳を中心に、北東に孝徳陵古墳、南東に推古陵古墳、南西に敏達陵古墳、北西に聖徳太子墓があり、これら5基の古墳は梅鉢御陵(うめばちごりょう)と総称されてきた。
周辺には、天皇陵に比定される古墳を中心に多くの古墳群が広がり、王陵の谷とも呼ばれる。
用明天皇(540?-587)は、第31代に数えられる天皇(在位585-587)で、欽明天皇の第四皇子として生まれ、母は蘇我稲目の娘 蘇我馬子の妹の堅塩媛(きたしひめ)である。
大兄皇子といい、同母兄敏達天皇の死によって585年9月に即位した。異母妹 穴穂部間人皇女を皇后に立て、大臣蘇我馬子、大連物部守屋の補佐を受けたが、両氏の抗争の中で587年4月に没した。
法隆寺薬師如来像光背銘に、病の天皇が薬師像を造ろうとして成らず、推古天皇と聖徳太子が受け継いだことが記されている。
皇子に厩戸皇子(聖徳太子)があり、皇女酢香手姫は伊勢斎王となっている。
近鉄長野線貴志駅からバスで春日口下車、徒歩5分。
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