蕪村玉川句碑

蕪村玉川句碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
高野山奥の院の蕪村句碑は、玉川に架かる御廟橋南詰西約10mのところに建立されている。
嘉永元年玉川碑歌碑の手前にあり、紀州有田川産の砂岩製石碑には、次のように刻されている。

 蕪村翁
  玉川に高野の花や流れ去る
 (台石) 金剛峯寺 平成十五年十一月建立

蕪村(1716-1783)は、江戸時代中期の俳人、文人、画家である。
姓は谷口、のち与謝(よさ)と改めた。俳号は宰町、落日庵、紫狐庵、夜半亭など、画号も四明、朝滄(ちょうそう)、長庚、春星など数多い。
享保元年(1716)摂津国東成郡(ひがしなりごおり)毛馬村(現大阪市都島区)で生まれた。→ 蕪村生誕地・句碑
17、8歳の時に毛馬を出て江戸に下り、早野巴人(はじん)に俳諧を学んだ後、俳諧と絵画の両面で多面的な才能を発揮した。
松尾芭蕉、小林一茶とともに江戸の三大俳人として知られ、「なの花や月は東に日は西に」「春の海終日(ひねもす)のたりのたりかな」などの俳句がある。→ 蕪村公園
天明2年(1782)3月、蕪村は吉野の花を見てのち高野山に登り、上記の「玉川に」の句を詠んだ。
そのあと九度山の真田庵を訪ね、「かくれ住んで花に真田が謡かな」の句を残している。
天明3年(1783)に「しら梅に明(あく)る夜ばかりとなりにけり」の辞世を残し、京都で没した。(享年68歳)
墓所は、芭蕉庵のある京都市左京区の金福寺(こんぷくじ)にある。
→ 高野山の句碑



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