血縄遺跡

血縄遺跡は、和歌山県橋本市隅田町中下にある弥生時代の遺跡である。
紀ノ川右岸の標高95-98mの河岸段丘上にある。
遺跡の南端は紀ノ川に深く浸食されて約18mの崖となり、西端は高橋川の深い渓谷、
北側は高さ2.5‐3mの自然堤防で、東西約300m、南北約100mの範囲に土師器、須恵器などが出土している
昭和25年(1950)春に花岡ヨネエさんが発見した。
その後、昭和48年(1973)の第1次から平成2年(1991)の第5次まで発掘調査が行われた。
出土した壺、高坏などの土器は、橋本市のあさもよし歴史館に展示されている。
上兵庫区の中尾氏が発見した特記すべき出土品に装飾品の勾玉があり、原石は瑪瑙である。
隅田町中下には、勾玉のレプリカが展示されており、横には知縄山王社の祠が祀られている。
また、血縄には地蔵堂が祀られ、正平16年(1361)の五輪塔の地輪があり、嘉永元年(1848)に建立した法華経供養塔も現存している。
当遺跡は、かつらぎ町の船岡山遺跡、打田町の堂坂遺跡などと時期的に重複するもので、
大和政権の確立前に、奈良盆地南部と瀬戸内海を結ぶ交通の要地で営まれた集落のものと考えられている。
JR和歌山線隅田駅下車、徒歩15分。



血縄伝説

血縄は、隅田町中下の小字名で、次のような伝説が残されている。(橋本市郷土資料館発行「てくころ文庫16号」)→知縄地蔵堂

「鎌倉時代、北条時頼が全国行脚の途中、利生護国寺を訪れ、荒廃していた寺を見て嘆かわしく思い、何とか復興しようと、帰依していた高僧、叡尊と相談した。
費用として、下兵庫の土地の寄進を受け、立派に再建された。
地元ではその御礼をしようと北条時頼に尋ねた。時頼は「この地方で有名な血縄での鮎狩をしてほしい。」と所望した。
当時、利生護国寺は隅田一族の氏寺だった。時頼の願いを適えようと、一族の武士も小舟に乗り込んで、鮎狩を始めた。
武士たちは、内心ビクビクしていた。昔から血縄の淵には、大鯰が住んでいて、人間にも襲いかかると伝わる淵である。
しかし、恐れていては隅田武士の名折れになる。勇気を出して、網を入れ、川面を棒で叩きながら鮎を追い込んだ。
その時、案の定、大鯰が水面に浮かんできて、時頼の乗っている船を持ち上げた。
武士たちは、今ぞとばかりに、鯰に向かって銛を投げ付けた。
鯰の頭や背から、噴水のように血が噴き出し、川面を縄のように流れていった。」
このようなことがあって、この付近を血縄と呼ぶようになったと伝わっている。


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