越前府中城跡(「越府城址」石碑)

越前府中城跡(「越府城址」石碑)は、福井県越前市府中1丁目にある。
越前国の国府があったことから府中を越府(えっぷ)としており、国府の施設はこの辺りから西方にあったと考えられている。
明治2年(1869)に府中を武生と改称した。

府中城は、文明年間(1469-87)、斯波氏が越前国守護代をここにおいた府中奉行所が始まりとされ、天正3年(1575)、織田信長は越前一向一揆鎮圧後、柴田勝家に越前を任せ、目付役としてのちに府中三人衆と呼ばれる武将の不破光治(ふわみつはる)、佐々正成(さっさまさなり)、前田利家を武生とその周辺に配置した。
不和は龍門寺城に入り、佐々は味真野(あじまの)に小丸城を築き、前田は府中奉行所を修築して府中城とした。
利家の府中城拡張工事によって、その地にあった惣社(現 総社大神宮)を、現在地の京町に移したという。
慶長6年(1601)越前国主結城秀康の家臣 本多富正が武生とその周辺3万7千石を与えられて府中城主となると、前田氏の居城を修築してこれを居館とした。
「越府城址」石碑に並んで、本多富正公顕彰碑が建てられている。
以降、明治維新まで本多氏が9代にわたって当地を支配した。
明治7年(1874)城跡に進脩小学校(現 武生東小学校)が建てられ、駅前通り拡幅や学童増加で、1956年に国府2丁目に移り、その跡に市庁舎が建てられた。

府中城の構えは陣屋風で御茶屋或は御館と呼ばれていたが、1605年頃の「越前国絵図」によると、三階建ての楼閣風建物が描かれており、時期が下がると二層の天守閣を備え、フジの垣があったことから藤垣城とも呼ばれた。
府中城は、日野川を自然の防御線に利用した平城で、南北180~200m、東西約110mの敷地を有し、「府中城図」によると、内堀と外堀に囲まれ、東と北はとくに入念に石垣を組んでいた。
平成28年度から実施した越前市役所本庁舎建設に係る発掘調査で、延長40m、高さ0.6mから3.1mの石垣が発見された。これは、本多家の御館(おやかた)を囲んでいた石垣で、流紋岩の自然石を利用した野面積みで組まれていた。
当地の現在の石垣は、発掘された石垣の石を利用し、積み方や特徴を生かしながら、新たに築いたものである。

JR北陸線武生駅下車、徒歩3分。越前市役所の来庁者駐車場がある。



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